西原 博史氏 2000年7月9日 大阪講演会録

にしはら ひろし(1958年 - )法学者。早稲田大学社会科学部教授。専攻は憲法学・比較憲法学。研究テーマは思想・良心の自由、基本的人権の基礎理論、平等など。刑法学者、元早大総長の西原春夫は実父。一橋大教授の阪口正二郎とは早大での親友。

 「問題提起」の中で提起されている方向性について、私もかなり賛同できます。「思想・良心の自由」の問題として「日の丸・君が代」を捉えていき、学校や教育委員会、そして文部省に対しても、子どもの思想・良心の問題であることを意識しながら、要望をだしていくという方向性、これには非常に賛同しています。
 「思想・良心の自由」が子どもにあるのは、当たり前のことです。しかし、なぜ今それをあらためて問題にしなければならないのか。そのことから話をはじめていきたいと思います。その後具体的な問題の検討に入っていき、「思想・良心の自由」に関して、いったいだれがどういうことを言えるのかということを検討して行きたいと思います。

今、なぜ「日の丸」「君が代」の強制か

 戦後新しい憲法になって、学校教育を作り直していく時に、まず出発点となったのは、戦前の教育体制に対する反省でした。戦前の教育は、教育勅語御真影によって、徹底的に押し進めてきた皇民化教育、天皇イデオロギー、あるいは国家神道というイデオロギー体系を駆使して、天皇に対して忠実な兵士を作って行くというものでした。それをどのように克服するかが学校の課題であった。その出発点として教育基本法ができあがったわけです。その中では、基本的には人格を完成させること、それぞれの人がそれぞれの人格理念をその人なりに形成していくことが教育の基本となりました。
 それがなぜ今、また脅かされるようになっているのか。これをまず出発点として確認していかないと、われわれがどういう戦略を立てていくかが今ひとつ明確にならないのではないかと思います。「日の丸・君が代」をもう一度学校へ持ち込もうとした動き事態は、戦後一貫して保守、あるいは反動と言われた人々が追求してきたことです。天皇制の復活は、1950年代に憲法改正が問題になったときからすでに言われていました。この動きは1960年代には一旦退き、表にはでてきません。それがもう一度出てくるのが1989年の学習指導要領の改訂による「国旗・国歌の義務化」です。それのもとになったのが、1980年代に中曽根政権のもとでつくられた臨教審における新たな学校の位置づけ直しであったと思います。
 中曽根臨教審で、なぜ国旗・国歌を押しつけるという発想が出てきたのか。これは昔ながらの保守反動という理解では、十分把握できません。最も強く国旗・国歌を押しつけるべきだと主張したのが、実は昔ながらの天皇制を頂く保守グループではなくて、教育の自由化を主張していたグループでした。
 戦後日本の社会は、福祉国家という国家イメージを作ってきました。国家は、国民に対してサービスを提供していくものだという前提でした。教育も一つのサービスとして捉えられていくわけです。これが今までの戦後の国家像というものでした。
 1990年代には、戦後の国家像の転換が本格的に動き出しました。具体的には、国家がサービスを提供すると言ったときに、一番大きかったのは豊かな社会を保障し続けることでした。これが日本国憲法下での国家の任務として、かなり強いところにおかれました。従って、護送船団方式という言い方をすることもありますが、国が丸抱えで銀行を守っていくと言うことが行われていました。そのことで守られていたのが、結局一つの社会的経済的な体制であって、たとえば大企業に就職すれば終身雇用という形で一生働き、そこでは大失敗をしなければ階段をのぼり、老後の生活も一応は安定しているというイメージです。それをまさに実現させていたのが国家によるコントロールであったわけです。ところが、グローバリゼーションの中では、必然的に国家の官僚制が経済活動全体を統制する動きには、無理が出てきます。この日本型の福祉国家が息詰まってきたのが80年代から90年代にかけての現象でした。
 これがどうして「日の丸・君が代」とつながるのかと言うと、我々の方から見ると全然つながらないのですが、国家を運営する側から見るとつながるのかもしれません。つまり、今までは国家は国民に対して「私たちは皆さんにこういうものを提供していますよ」と言う言葉遣いで、国家そのものの正当性を説明できました。ところが、今これまでやってきたサービスができなくなってきました。現実に、大企業と言われる会社に入ったところで、倒産して、生活に困難が生じることも出てきています。
 これは、歴史的に何回も繰り返された現象です。いわゆる「大きな政府」、つまり税金をいっぱい集めて、いろんなサービスを国民に提供していく、そういった「大きな政府」が崩れて「小さな政府」に移っていくことがあります。「小さな政府」とは国家としてやらなければならないことを限定していき、財政的にも少し縮小して動いていく政府のことです。「大きな政府」が「小さな政府」になる時には、多くの場合、「大きな政府」が小さくて強い政府になる傾向があります。「大きな政府」は自分のやってきたことだけで存在証明をやってきました。これに対して、「小さな政府」になろうとするときには、強力なイデオロギー(国家が必要なんだという)を押しつける形でしか、自らの正当性を説明できません。
 90年代に入ってからの自民党の傾向を見ていると、特に顕著なんですが、国家の正当性の根拠を、一つは安全というキーワードを要に動かしています。これは一つは対外的な圧力です。北朝鮮の「不審船問題」や「ミサイル問題」などをことさら強調して、外部からの攻撃に対して我々が身を守るためには、日本が強い国家にならなければならないという主張をしてきます。もう一つは犯罪の問題です。特に「青少年犯罪」です。比較的若年層における犯罪のちょっとした増加傾向を捉えて「増加だ、増加だ、大問題だ」と大騒ぎをして、まるで日本がこれから犯罪の多発する危険な社会になっていくかのような宣伝をしています。「青少年犯罪」をなくすためには、青少年がきっちりとした規範意識を、自分たちで作れるようになっていかなければならないと主張されてくることになります。つまり、安全をキーワードにしながら、最終的には憲法改正して、第9条の戦力に対する歯止めをなくす軍国主義化の流れが出てくると同時に、国家が学校に対して手を出していこうとしています。

展望をもたない天皇を中心とした規範教育の押しつけ
 
 そこでは学校は、子どもたちに積極的に社会規範を押しつけていこうとする発想が導き出されていきます。道徳的な規範を説明するためには、日本社会という共同体を作り上げることが非常に便利な枠組みになってきます。学校の中で道徳を言う時、その行為が何のために正しいのか、なぜ正しいのか、誰に対する責任を果たす上で正しいのか、と責任の求め先がどうしても必要になってきます。そこでわかりやすいのが、日本社会というものを作り上げ、「社会のメンバーでしかない個人」という個人の位置づけを押しつけてしまうことです。
 日本社会を誰にもわかる形で現そうとすれば、天皇もしくは旗や歌、とにかく公の場を代表するものがあると言っておいたほうが、学校の中での規範教育が楽になってくると思います。そこで学校の中で規範教育、道徳教育をやっていこうとすれば、何らかの道徳的にまとまっていく手がかりが必要になってくる傾向がでてきます。国旗・国歌が、1980年代後半から強調されてきた背景は、やはりそこの部分で、社会全体を現すものとしてのシンボルが必要になってきたことになります。公性は、日本社会の中では「日の丸」であり「君が代」であり、天皇であるんだということです。
 実はそこには、論理的で説得力を持っている部分と、非常に論理性のない部分とがあります。論理性のない部分から言えば、グローバリゼーションの流れの中で、これだけ国境がなくなり、お金も物も国境を飛び越して動き回っている社会のもとでは、国が何かをコントロールしようとしてもできるはずがありません。国家のコントロール能力が下がってくるのは、ある意味当然と言えば当然のことです。
 そういう状態のところに、もう一度新しい国家の存在理由として徹底的なナショナリズムのシンボルを強調しようとするのは、かなり的はずれです。たとえば、東南アジアに進出した日本企業の屋上に「日の丸」を立てることのメリット・デメリットを考えると明らかです。海外で現地生産をやって行くには「日の丸」は、妨害要素にしかならない物です。地域住民の反発をかうだけです。それがわかっていながら国際化の中で「日の丸」や「君が代」が必要になってきたと言わなければならないところに、矛盾がでてきているわけです。
 どういう体系に基づいてナショナリズムを再構築しようとしていくのか、あるいはどういうナショナリズムを再構築しようとしているのか等、政府が一つの全体的な枠組みを思い描きながら、国旗・国歌を強制してきているのであろうか、と言うことです。一番単純な仮説は、それは何もわかっていないと言うことです。政府は、自分たちが今までとは全く違った状況に立たされていることだけはわかっています。その中でどういう選択肢を選択したらよいかは、非常に悩んでいる。悩んでいるけど、新たなものを作り出していく能力はない。とにかく政府は困ってしまって、昔一度役に立ったことのある手段をただ単に使っているに過ぎないと言うことです。それは、昔の混乱状況の中で役に立ったというのが唯一の根拠で、それが現状に対して、どう役に立ちうるかの分析はしていないのではないか、という仮説です。現実問題として、今でてきている国歌・国旗を使ったナショナリズムは、かなり時代錯誤的なものです。だとすれば、この仮説は正しいのかもしれないと考えられます。

自分で考え決める人間か、上に何でも従う人間か−−規範教育の矛盾

 学校や日本社会が、一つの公を提示して国家を国民に意識させなければならないという議論は、教育の場を離れてもいろんなところででてきています。一番典型的なものは、「ゴーマニズム宣言」で知られた漫画家小林よしのりの「戦争論」です。それがいわゆる「自由主義史観」と言われる人々と連動して、軍国主義の下支えとして展開していきます。そこで言われていることは、「戦後の日本人は公というものを失ってしまった、みんなプライベートな空間に入っていって、私的な個人として、根無し草になって浮遊している状況がある」「そういう状況の中では、日本に未来はなく、国家のために貢献するんだという意識がないと日本は立ち直ることができない」というものです。従って、「国家のために貢献することがいいことなんだ」という、意識的な枠組みを作る必要があるんだという主張が、保守的な部分から流れてきます。規範教育をするには、規範の手がかりとして、誰に対する責任かという、責任の相手方が必要だということです。責任の相手方というのが国家であり天皇であるという発想に結びついてきます。
 小林よしのりの中の矛盾ですが、ここでは二つの部分の選択肢が問われてくることになります。一つは、上から言われたことに何でも従う人間。もう一つは自分で考え自分で決めることのできる人間。この二つのイメージです。この二つの選択がでてくるわけです。そもそも新自由主義的な改革は、規制緩和に現れてきますが、「国家がもう守ってあげないよ」という方向を向いていたわけですから、そこでは自分で責任をとれる人間が必要だったわけで、その意味では、自分で考えること、自分で決めれること、自分で責任をとれることにかなり重きが置かれていたことになっていたわけです。ところが公に服従する人間というイメージがそれと重なり合いながら、あるいは平行してでてくるわけです。これは、突き詰めていくと矛盾していきます。「教育改革」を主張していた人々はその間で、股裂き状態に陥っています。学校教育の中で、自分で決められる人間を作って行くのか、自分では決めない、人に決めてもらう人間を作っていくのか、この両者の間で規範教育は股裂き状態に陥らざるを得ないということです。
 整理すると、国家というものの存在イメージが変わろうとしている中で、国家を動かしている人たちは、自分たちに対して国民が心から支持しているというのが欲しくなっています。それを規範教育とその規範教育の基となる国家を意識させる動きの中で、子どもたちに持ってもらおうとしています。そこには、今後日本社会がどういった方向性をめざそうとしているか、全体的な戦略が見えてきません。もう一つは、それがただ見えてこないだけでなくて、そこでめざされているものの中には矛盾する二つの要素が現れています。一方では「自分で責任を持てる人間になりなさい」といいながら、もう一方では「自分で決めてはいけなくて、上のいっていることに従いなさい」と言っています。そこに矛盾した状態がでてきています。

パンドラの箱」を開けた国旗国歌法

 国旗国歌法が出来てから、出来る過程でも、数の力の暴力、権力の力の暴力を非常に目の当たりにしています。今までは、職員会議であれ国民的な討論であれ、ある程度議論を経てやっていたものが、去年からはっきりと国会では議論しない、数の力で押し切る流れになってしまっています。そして学校現場では、これは去年からではないかもしれませんが、国旗国歌の問題については、問答無用で暴力的に上から押しつけるということに転換しています。
 なぜそこまでしなければならないかというと、もとからそこには無理があるからです。もともと、国民にやっぱり国旗・国歌が必要だという意識がないところで、壊れかかっている国家の側が国民達にこれを押しつけないと自分たちの未来はないという強迫観念にとらわれながら、押しつけようとしているわけです。これを短期間でやってしまわないと国際化の流れの中で、自分たちの居場所がなくなってしまうかもしれないという、強迫観念を持っています。そして、押しつけようとするものの中には、かなりバラバラの要素が含まれていて、一つのきれいなイメージにならないので、言葉で説明しようとしても出来ません。だから、力で押しつけるしかないという部分がでてきているのです。
 これは、ある意味我々にとっては、希望であり、危険でもあるわけです。「国旗国歌法パンドラの箱」論というのがあります。「日の丸」「君が代」の法制化は、戦後一貫して保守グループはやりたかったわけで、もともとの願いだったわけです。ただ、それを50年かけてやっと実現にこぎ着けたわけです。国旗・国歌の法制化は、今まで封印されていたパンドラの箱であり、それを開けてしまったのです。天皇イデオロギー天皇を中心とする神の国という具体的な国家像、あるいは個人の人権の無視であり、公教育の直接的な国家支配であり、そういうありとあらゆる悪いものが世に放たれました。すでに世の中にあったこれらの要素が国旗・国歌の法制化によって一気に広がったと言えるのではないでしょうか。悪いものを世にはなった国旗国歌法は、同時に我々に対して「このままじゃいけないんじゃないか」「このままだととんでもないところに行くんじゃないか」という意識を持たしてくれる。その意味では希望の要素も含んでいると言えるのではないでしょうか。しかし、我々が本当に希望を手にすることが出来るかどうかは、今後何年間かの我々市民の動きにかかってくるのではないかと考えます。これを負の教訓として次の世代に残すのか、最終的に敗北し、希望すら捨ててしまうのか、我々は今ぎりぎりのところに立たされているのです。

自分らしい生き方を支える「思想・良心の自由」

 我々はこの問題を法的に見てどのように考えるべきなのでしょうか。私自身は憲法19条の「思想・良心の自由」の解釈を中心に研究生活を送ってきました。もとはそれほど人気のあるテーマではなかったのですが、最近急に必要になってしまったのです。日本社会が「思想・良心の自由」の重要性に気づいたのは、国旗国歌法の彼らが望んでいなかった逆効果だったといえます。「思想・良心の自由」とは自分の善悪の判断や論理的な考え方をする際に、どのような考え方を採用するのかについては個人が決めることであって国家が上から決めることではないという発想からできあがった基本的人権なのです。宗教の問題で考えるとわかりやすいと思いますが、どの神や仏を信じるか、または何も信じないか、などのろいろな立場がある中で、国家が特定の宗教を押しつけた場合、これに反対する人々は最終的には武器を持って闘った歴史的な経験があります。宗教戦争と呼ばれているものです。
 「思想・良心の自由」も基本的にはこれと同じ方向性を持っています。自分が自分らしく生きられることを保障していこうというのが基本的人権であり、自分で考えられる人間、自分で判断し自分の人生に責任をとれる人間に期待していこうというものです。思想・良心とは自分のものの考え方の基準となるものです。どういう倫理的な判断基準に基づいて考えるか、どういう思想的な考え方で世界を見るのかということは、自分自身の生き方を支えていく上でその人が決めるべきことで、他の人から押しつけられるものではないのです。これが「思想・良心の自由」の出発点となるのです。
 一人の人間とその人を取り巻く社会との関係は、人間が生きていく上で一番大事な部分に関わるのです。自分はどの会社の一員なのか、自分はどの家族の一員なのか、また自分はどこの国の国民なのか、自分は世界の中でどういう位置づけなのか等々、自分の属している団体と自分との関係で自分が一体何者なのかを理解していくことは、いわゆるアイデンティティー形成と呼ばれる作業になります。自分の上位にある団体と自分との関係を自分で考えながら自分で作っていくというのは、人間の思想・良心を形成していく上で、かなり本質的な部分に属していくことになります。国家が自分にとって何なんだということは、個人が自分で決めるべき問題になるわけです。その意味でいえば、「他のものよりも国を愛せ」というように序列をして国を愛せよという言い方、あるいは上から誰かが「こういう意味での、こういう国を、こういうふうに愛しなさい」と、押しつけることがあるとししたら、人間が自分らしい生き方の基準を作っていく「思想・良心の自由」とは真っ向から反することになるわけです。
 「思想・良心の自由」は同時に、自分の思想・良心を殺していく行動を、個人に押しつける法的な義務からの自由でもあるわけです。現実的には、良心的兵役拒否の問題としてでてきます。私は、平和主義者だから、とにかくどういう状況でも人を殺すのは悪だとする倫理観を持っていたとします。その人間に対して、国が「あなたは兵役に行きなさい」と命令を下すとします。その場合、もし私が銃をとり、「敵」を撃ち殺すようなことがあったならば、自分の今までの倫理観は壊れてしまうことになります。そういう状況では、自分の良心を破壊する国家の行為やその法義務に対して私は、NOをいわざるを得ないということです。これを憲法上の権利として承認することも「思想・良心の自由」は含んでいるという説明が一般的です。
 この点に関しては、憲法学の中でも混乱があります。思想・良心に従った「行動の自由」の部分を昔の理論は、認めていませんでした。思想・良心というのは内心どまりでした。そこから一歩外へでたら認められませんでした。しかしそれでは、「思想・良心の自由」を認めたことにならないのではないかと思います。「人を殺したくないという倫理観を持つことはいいけれども、あなたは兵隊なんだから人を殺してきなさい。これは内心とは関係ないんですよ。」という議論は成立しないでしょう。この考え方は、70年代以降、少しずつ認められつつあります。
 現実問題として、国歌・国旗の問題が意識されはじめてきた1989年以降、「君が代」を歌うというこの祈りの行為、その信仰告白行為が自分の良心の問題として出来ないと、主張する人たちがでてきました。その段階で、思想・良心の内と外を区別することは出来ないはずで、自分の良心を殺していくような命令に従うことは、内心の思想・良心を破壊してしまうことになるという意識が強まっています。
 このことは、宗教の問題では直接判例の中で信仰の自由の一貫になり得るだろうと認められるようになってきています。具体的には神戸の「エホバの証人」のケースです。彼らは、平和主義の立場をかなり強固にとっていて、ヨーロッパやアメリカで良心的兵役拒否の制度を作らせた原動力的存在でした。彼らが、日本の学校の中で体育の授業として格闘技もできないといったわけです。その結果彼は退学になりました。これを訴えたら、大阪高裁で勝ち、最終的には最高裁で勝ちました。その中では、自分の宗教的な信条に反する行為を押しつけられることを基本的人権の問題として最高裁判例の中では理解されています。従って、心の内と外を完全に切り離していいんだという議論は、最高裁判例の中でも少しずつ見直されていると思います。

教職員への人権侵害を指摘した福岡県弁護士会の「警告書」

 そこで、国旗・国歌の強制の問題についてどういう権利がありうるかということです。この点について、一つ良いニュースをお伝えします。北九州でココロ裁判が行われています。その裁判は今継続中で、まだ終わりが見えていない段階です。北九州は、大阪府教育委員会のモデルと言われてきたところですが、かなり早い段階で教育委員会が強い指導を行い、校長が不起立の教職員を処分しています。最初は、厳重注意から始まって、訓告を経て、今年から減給処分にまでいたっています。ただ不起立だけでです。北九州ではすでに旗を揚げない、歌を歌わないというオプションは、ほとんど意識されていない状況です。それを実現しようとして動く職員会議の中での勢力もほとんどない状態です。その中で、何人かの良心ある教職員は、一緒に歌いたくないということで座りつづけています。このことを最後の最後の選択肢としてとらざるを得なかったのです。もし自分が歌ったら子どもたちが歌わなくてはならなくなってしまう、「歌わなくていいんだよ」「歌わなかった子どもに、あなたはまちがっていんばいんだよ」ということを伝えるには、自分が座ることしか出来なかったのです。そのことで、たとえば3回も訓告を受けていたら、次は減給処分になることは目に見えていても、そうせざるを得ないという状況がありました。
 不起立処分された人々は、裁判と同時並行で県の弁護士会に人権救済の申し立てを提出していました。6月28日段階で、県の弁護士会から教育委員会あてに「警告書」が発せられています。「警告書」は、県の弁護士会が事案を検討した結果、ここには人権侵害の状況があるから、それをただちに改善するように警告する内容です。弁護士会は、これが学校の中でのことであることをあまり重視しませんでした。私が最近いっているのは、保護者・子どもについては良心の自由をストレートに主張できると。ただ、教職員については微妙な部分を含んでいますといってきました。ただ、この「警告書」は、基本的にはその部分を考えずに過ごしています。なるほど、こういうふうに考えないのも一つの手なんだなということに気づいた分けです。
 ここで、なぜ教職員が不起立で処分されたことが、人権侵害になるのかということです。まず、教職員も基本的人権を持っているということです。教職員の基本的人権は、学校の中での外部的行為に現れてくるときには、ある程度制約をされてきます。思想・良心に従って何かが出来ないと言うことで特定の法義務を拒否する場合に、全面的にどういう場合でもそれが認められると言うことではないかもしれません。「警告書」で書かれている具体的な権利の制限理由は、第1に「・当該法義務の性格。その法義務が実質的な公共的利益を実現するために必要不可欠なものといえるかどうか。」第2に「・当該信教の自由(思想・良心の自由)の真摯性。とくに非宗教的な思想・良心については、宗教的信念と同程度の強さを持っているといえるか。」第3に「・当該法義務による規制が当該信仰ないし思想・良心にどの程度の負担・妨げを生じさせるか。また、当該法義務を履行しないことによって、その者にどの程度の不利益が許されるか。」です。この3点を考えながら、本当にこれが良心の押しつけであって許されないものといえるのかどうか、考えなければならないと判断をしているわけです。この場合、良心にはある程度の負担を課すけれども、「それぐらいは我慢してください」と言わなければならない場面もでてくるかもしれませんという前提です。しかし、国歌斉唱における不起立については、それは「我慢してください」と言える理由はないという認定につながっています。
 その根拠ですが、一つは公共の利益の実現に教職員の起立が必要とはいえないということです。そこでは、福岡県弁護士会は、子どもに全員歌わせようと思えば、座っている教職員がいることは、その目的を実現するのを遠ざけることになるかもしれません。つまり子ども全員に歌わせようと思えば、座っている教職員がいるとまずいかもしれないということです。しかし、ここで設定される公共の利益というのは、子ども全員に歌わせること自身は、目的ではありません。もともと子どもたちに強制することは出来ないから、従って、子どもたちは無理矢理歌わされる存在でもないし、教職員が座っていたことで、歌わなかったという現象があったとしても、それは問題になるものではありません。そして、卒業式の場で歌うことが押しつけられたときには、これは本人にとっては、思想・良心に壊滅的な打撃を被ることになります。従って、この場合には、良心の自由が当然のこととして優先されるという論理を打ち立てています。
 弁護士会が「警告書」を発したということをどういう意味で理解していくのか。もちろん、これは弁護士会という全くプライベートな団体が、全くプライベートに「あなたのやっていることは、人権侵害です」という意見を作って、それを教育委員会に渡しに行ったということです。法律的な効果は、なにもありません。しかし、弁護士会というのは、その地域の弁護士たちが全員加入していなければならない、そういう非常に公的な存在を持った団体です。それは、弁護士法に認められている団体です。だから、福岡の弁護士の多数が、法律の解釈の内容として、「警告書」に一致しているということが推定できるということです。従って、国旗・国歌の問題で福岡の弁護士会が、子どもたちに押しつけられているのも人権侵害であれば、それを正当化するために個々の教職員に処分が及んでいるのも人権侵害であると、はっきり認定したことの意味は、大きいものがあると思います。

不起立処分の違法性がせめぎ合い

 それでは、我々は具体的にはどのように考えていけばよいかという問題です。結論からいえば、起立に関しては、基本的人権で説明することでいけるであろう思います。不起立で処分することは、違法だろうということにはなるだろうと思います。
 もう一度整理すると、保護者・子どもの場合には、最初から良心の自由が優先されることは、はっきりしています。従って、保護者・子どもの場合は、歌う義務が一切生じるものではない。国旗国歌法の中には、何も歌わなければならないとか尊重しなければならないという意味合いのものは、全くありません。その意味で、歌わなければならないという義務はどこにもでてきません。文部省の学習指導要領の中で教職員が国旗国歌を指導するという形になっているので、学校で指導を受けざるを得ないかもしれません。ただこれは、あくまで指導の問題であって、「君が代」を歌わないことによって何らかの不利益の対象になることは一切許されないことです。歌、旗の問題は、直接思想的な内容に絡んできますので、その思想を無理矢理受け入れさせることを強制することは出来ません。これは、国旗国歌法制定過程で、政府・文部省が繰り返し、言ってきたことです。そういう意味でも、国旗国歌の指導は、強制性を持ってはならないという一致があります。その意味で、子どもの権利は確立しています。子どもは歌う義務はない。歌わない権利がある。従って歌わない権利を実現するための制度的な枠組みが必要になってきます。
 次に、教職員の問題が出てきます。福岡の弁護士会の「警告書」を見ても、教職員へ押しつけることも正しいことではありません。人権侵害の部分をかなり含んでいます。だからと言って、「座っていいんだよ」と、私は言えないかもしれません。現実問題として、この問題は裁判上解決していません。不起立だけを争っている北九州の裁判も継続中です。いままで裁判所の判断がでたことはありません。青森で一件、国旗を掲揚をしなかったことで処分されたケースで、その処分が違法であるという認定はあります。しかし、あれはかなり特殊な事例で、あまり一般化することはできません。特に、判決文が違法だと認定した理由の中に、ついうっかり忘れたんだから、本人は別に掲揚したくなかったわけではないし、来年から同じことが繰り返されることも決まったわけでもないので、今年ぐらいはいいじゃないかという判決の書き方になっています。青森の裁判所の判決が一般的な法原則を確立したものにはなっていないのが現実です。
 まさに教職員が不起立をした場合にどうなるかというのは、一番微妙な部分でせめぎ合いの真っ最中ということになります。もちろん、処分されてもいいから、自分の良心に忠実でありたいといってくださる方がいるのは、非常にありがたいことですが、「大丈夫ですよ」とお答えすることは、残念ながら出来ないかもしれません。法律に携わっている我々の側からすると、そこの部分の解釈を精緻な形で作り上げていくことによって、裁判所にぶつけていく、そして最終的には裁判所が、受け入れざるを得ないものを用意していく作業を今やっている、真っ最中です。

職務命令に抵抗できる法的可能性

 一般論として微妙になってくるのは、職務命令を出された場合です。でていなければ、皆さんの方で現場で話し合いに基づいてより良き解決をめざしていただくことのできる条件があると思います。だから、校長が「やるよ」と仮にいったとしても、それは単なる校長の個人的提案であって、「やるよ」と言ったからやることに決まった分けではない。それに対して、異議を唱えたから、法的に不利益を被ることは一切ないわけです。このことは、きちんと確認しておく必要があると思います。ですから、仮に校長が「やるよ」と言っても、職務命令で「やりなさい」という命令がでていない以上、これは話し合い、教育論の領域であると言えます。子どもたちのよりよい教育をめざして、お互いに話し合いをして、よりよい解決をめざしていくことが出来る場なんだと言えます。
 ただ、いくつかの場面では、校長が「立って歌いなさい」「様々な形で卒業式の進行に協力しなさい」等の職務命令を出すケースがでてきています。この場面で職務命令に逆らうことが出来るかどうかというのが、我々にとって一番頭の痛い問題です。出来るはずだと言うところまでしか、我々は言えないんだと思います。
 出来るはずであるが、その理由は若干複雑になってきます。まず、この職務命令が適法なのかどうかという問題が出てきます。教職員の基本的人権を侵害しているから違法となる可能性がある場合と、子どもたちの「思想・良心の自由」を侵害する結果になるから、その職務命令は違法になる可能性がある場合です。この両方を見ていかなければならないと思います。私自身は、むしろ二つ目の部分、子どもたちの思想・良心に対する押しつけの一環だという認識を表に出す理論を組み立てています。これは、どちらを表にだしてもいい問題で、両方だしてもいいと思います。つまり、そこでは教育委員会は子どもたちに無理矢理歌わせる、子どもたち全員が立って歌うのが理想であると、その理想に近づけるためにいろんな指導をしていくという図式があるわけです。それぞれの教職員が座ってしまうことは、子どもたちが全員立って歌う理想状態を邪魔する形になるから、教職員は全員立って歌わなければいけないんだという命令がかかってくる。全体としてこういう枠組みとして理解する必要があるんではないかと思います。
 だとすれば、ここには学習指導要領の読み間違いがあると思います。もともと子どもたちが全員立って歌うこと自身が目標ではなかったはずで、学習指導要領で国歌・国旗を指導することになっていることも、全員が立って歌うというイデオロギーを受け入れる教育目標を実現しようしていると解釈してはいけないと思います。もしそう解釈しなければならないのなら、それは学習指導要領が特定のイデオロギーを押しつけることになるので、憲法19条違反になります。学習指導要領が、憲法19条違反ではない形で解釈出来るとするならば、国旗・国歌の指導の目的が子どもたちに対して「愛国心」の押しつけではなくて、子どもたちに自分と国家との関係をもう一度考えるきっかけを提供することだと理解するしかありません。だとするならば、学習指導要領は、合法的に成立していることになります。その学習指導要領を持って教職員に、校長が、あるいは教育委員会が校長に対して「学習指導要領があるから、子どもたち全員に歌うよう指導しなさい」「歌わせることが第1目標なんですよ」と命令を発していくならば、学習指導要領の解釈を間違っているといわなきゃいけないと思います。そこでは、学校の中で仮に国旗・国歌を扱うことが許されるとしても、それはあくまで子どもたちが自分と国家との関係、自分と政府との関係をもう一度考え直す手がかりとして扱うにすぎないわけです。まさにそのためには、国旗・国歌を崇めない、「君が代」を歌わないという選択肢もあるんだという指導が、学校での国旗・国歌の指導の中で本質的な部分をなしていくと思います。従って、学校の中で国旗・国家を扱う場合には、常に国旗・国歌を尊重しない可能性、歌わない可能性、敬礼しない可能性を伝達していく、それがまさに「思想・良心の自由」の帰結として要求されていることを学校側からも伝えていかなければならないと思います。ですから儀式の中で「国歌斉唱」を取り込んだとしても、その場合は「歌うか歌わないかは皆さんの考える問題ですよ」というメッセージを学校の中での国旗・国歌の扱いとセットになってでてこなければ、おかしいのではないかと思います。
 もし、教職員に対して歌わなければならないという職務命令がかかる場合は、「みんながこれを歌わなければいけないんだ」というメッセージを子どもたちに押しつけようとしている、そういう間違った国旗・国歌の指導があってはじめて、個々の教職員への職務命令がでてくると考えられます。これはまず、校長の決める学校の中での国旗・国歌の指導のあり方が、そもそも憲法違反の指導になっている、子どもたちの基本的人権を認めていない、従って職務命令が、憲法違反であって認められない。従って、教職員はそれに従う義務はない、という言い方がでてきます。もう一つは、福岡県弁護士会のやったように教職員の基本的人権も侵害されることになるという言い方です。
 難しいのは、ここで職務命令が出されたときに、個別の教職員は自分でその職務命令が適法かどうかを判断することができないという、行政法上の原則があることです。一旦、権限のある者が発した行政的な命令は、裁判所がそれは違法であったと認定し取り消すまでは、合法であると扱われるのが普通です。個別の教職員が、「これは違法だから、従わなくても良い」ということは、原則としてはかなり微妙な問題を含んでいます。だからといって裁判が終わるまで待っていることは出来ないので、その間にどうするかという問題が、当然出てきます。
 この点については、二つのポイントを指摘できるんではないかと思っています。一つは、自分の「思想・良心の自由」に対する圧迫の強さです。一旦私がここで「君が代」を歌ってしまったら、私の思想・良心がその行為を許せないという侵害の深刻性の問題です。これを問題にすれば、教職員の「思想・良心の自由」の問題として、その時点で「今回は歌いたくない」という主張が許される部分がでてきます。
 もう一つは、自分が歌うことは、子どもたちに対して「君が代」は歌うものだというメッセージを伝達する効果を持ってしまうことです。もとはと言えば、子どもたちに歌わなくても良いということが、きっちり伝えられていなければいけないはずです。そうではなくて教職員が歌ってしまうことで、子どもたちに「あなた達も歌いなさい」という押しつけの片棒を担がされてしまうことがあります。そこで問題になるのは、子どもたちひとりひとりの思想・良心が、教職員の片棒担ぎによって侵害されようとしている、その意味で、子どもに直接権利侵害を行う命令が発せられている状況になってきます。「君が代」を歌うか歌わないかは自分で決めなさいというメッセージが発せられていない卒業式の中では、「起立、国歌斉唱」という号令がかかっているときに、自分はこの歌は認めていないと言っていながら自分も立ち上がって歌うことがあれば、そこでは子どもたちの基本的人権を自らの行為で侵害していることを意識することになる場合があります。その時には、たとえその時点で合法的な命令であっても、それに従うことが加害行為になる可能性があります。その場合には、逆に子どもを守る義務を持つ存在としての教職員の立場から、一緒に歌ってはいけないという選択をとることが出来ます。歌わないという決断をした時に、後から法的に処分することが許されるものではありません。
 ホットラインとの関係で問題になってくる、保護者の権利、子どもの権利、教職員の権利を、こういう形で整理していくことで方向性が見えてくるのではないかと思います。すでに確立している部分と、特に教職員の権利の問題、どういう状況でどこまで保障できるかという警戒ラインの引き方は、まだ裁判所や弁護士、研究者の中で、意見の一致を見ていない部分があります。これからそこの部分の意見の一致を獲得していくことが我々には課せられています。権利は自ら闘いとるしかない部分も含まれていますので、その意味でも皆さんのご支援をお願いすることにもなります。
 「日の丸」「君が代」をめぐる状況は、かなり厳しいものがあります。実際問題として、地域によりますが暴力的な力による上からの強制という要素が強くあります。ただ、ある意味では無理があるからそうせざるを得ない部分があります。だとすれば、我々はそこでおとなしくなってしまうのでは、われわれの希望を失ってしまうことになります。おかしいものに対しては、おかしいと言い続けることによってしか、我々の希望を我々の手で取り戻すことはできません。おかしいという言い回しは、それぞれの方々がそれぞれ置かれている状況で違う言い方になってきてもいいんじゃないかと思います。そういう形で、非常に素朴におかしいと思ったものはおかしいと言い続ける、問題をみんなで共有してみる、考えてみる、そういうところからしか希望を手にする方法はないのではないかと思います。

●質疑応答(抄録) 

Q.「日の丸」「君が代」の強制で、教職員への人権侵害が、前へ出せないのはなぜか。

A.教職員への直接の人権侵害が、表にでてこないのはなぜかということです。一般論として、学校の中で教職員がおこなっていること、発言することすべてが、教職員個人としての基本的人権である表現の自由の行使ととしては理解できないのではないかと考えています。学校の中で配属された教職員が、個人の思想・良心の問題として、あるクラスは「皇国史観」に基づいて授業が行われている、隣のクラスは唯物史観に基づいた授業が行われていると。このような状況があると、おかしいんではないかと思ってしまいます。そうだとすれば、子どもは一方的に教職員のイデオロギー的押しつけの対象になってしまうことになります。出発点として、子どもに対するイデオロギー的押しつけをしてはいけないということです。教職員の基本的人権としていいたいことを言うことになならないんではないかと思います。 
 だとすれば、子どもに対して「君が代」を歌えと押しつけをすることは許されないことです。同時に教職員が子どもたちに国旗・国歌を認めてはいけないというイデオロギー的押しつけをすることも許されません。ここはまさに人それぞれ考え方の違う領域です。考え方の違う領域で、自分のイデオロギーを子どもたちに押しつけることは許されていません。
 儀式での教職員の活動の中で、「ピアノを演奏しなさい」と言われるケースでも、教職員の基本的人権の問題になるのかということです。子どもとの関係における教職員の活動なので、ストレートに教職員の基本的人権を持ってくるのはまずいんではないかと思います。私の考えでは、教職員の基本的人権の問題としてではなく、そこで子どもたちの基本的人権がどういう状況に置かれるのかということを判断の枠組みにしていくのがいいんじゃないかと思います。

Q.教職員の思想・良心が守られていないと、子どもたちの「思想・良心の自由」を守ることは出来ないと思うがどうか。

A.子どもたちの人権を守るためには、教職員の人権が必要であるという点についてはその通りだと思います。ただし、教職員の人権が保障されれば、すなわち子どもたちの人権が保障されたことになるかと言えば、必ずしもそうとは言えない。教職員が座るという状態でなければ、子どもが自発的に座るという選択が保障されている状態ではありません。教職員に対して、「立って歌いなさい」という命令がかかっている時には、子どもに対しても「立って歌いなさい」と命令がかかっているのとかなり等しいです。教職員が立って歌わなければならない状態であれば、子どもの人権はないに等しいと言うことが出来ます。

Q.卒・入学式の中では、子どもたちに考える機会を与えることも出来ないのではないか。

A.学校の中での国旗・国歌の指導が許されるのは、唯一国との関係を自分で考え直す手がかりなんだと言ってきました。しかし式の中では、考えるも何もないだろうというご指摘だったと思います。それは全くそのとおりです。ここは私自身が納得していない部分です。卒業式はある程度考えやすいと思います。卒業式では、自分たちが作り上げてきた人間関係がある中で、それらを集大成させる場になります。歌を歌うのかどうかの決定は、いろいろな教育学的な根拠からでてくると思います。入学式は、子どもたちがいきなり呼びつけられてしまうので、考えさせるも何もないというのは、強いと思います。