kantの本「永遠平和のために」

永遠平和のために

永遠平和のために

永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫)

永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫)

永遠平和のために (岩波文庫)

永遠平和のために (岩波文庫)

カントが1795年、71才の時に書いた著作。
民族国家を一人の人間個人と見なして、市民社会と同じような機関として「国際連合」のような組織を想定している。
この本から「国連」や「憲法第9条」の理念が生まれた。
カントの考えの中から、時代を超えた重要な普遍性を見つけることが出来るのではないでしょうか。

http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/4/3362590.html
世界の恒久的平和はいかにしてもたらされるべきか.カントは,常備軍の全廃・諸国家の民主化国際連合の創設など具体的提起を行ない,さらに人類の最高善=永遠平和の実現が決して空論にとどまらぬ根拠を明らかにして,人間ひとりひとりに平和への努力を厳粛に義務づける.あらためて熟読されるべき平和論の古典.

http://www.tokaicue.com/houkoku_6.html宇都宮芳明訳 岩波文庫1985年版より要約



[第一章]
第一条項
将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約とみなされてはならない。なぜなら、その場合には、それは実は単なる休戦であり、敵対行為の延長であって、平和ではないからである。

第二条項
独立しているいかなる国家(小国であろうと、大国であろうと、この場合問題ではない)も、継承、交換、買収、または贈与によって、ほかの国家がこれを取得できるということがあってはならない。
つまり国家は、(国家が場所を占めている土地のようなぐあいに)所有物(財産)ではない。
国家は、国家それ自身以外のなにものにも支配されたり、処理されてはならない人間社会である。

第三条項
常備軍は、時とともに全廃されなければならない。
なぜなら、常備軍はいつでも武装して出撃する準備を整えていることによって、ほかの諸国をたえず戦争の脅威にさらしているからである。常備軍が刺戟となって、たがいに無際限な軍備の拡大を競うようになると、それに費やされる軍事費の増大で、ついには平和の方が短期の競争よりも一層重荷となり、この重荷を逃れるために、常備軍そのものが先制攻撃の原因となるのである。

第四条項
国家の対外紛争にかんしては、いかなる国債も発行されてはならない。
国内経済のために(たとえば、道路の改修、新たな入植、懸念される凶年にそなえた貯蔵庫の設置、などのために)国の内外の助力を求めるとしても、こうした方策は嫌疑の対象とはならない。しかし借款制度は、国家権力がたがいに競いあうための道具としては、はてしなく増大し、しかもつねに当座の請求を受けないですむ安全な負債であるが、これは危険な金力、つまり戦争遂行のための宝庫であって、この宝庫はほかのすべての国の財貨の総量をしのぎ、しかも税収の不足に直面しないかぎりは空になることもない。

第五条項
いかなる国家も、ほかの国家の体制や統治に、暴力をもって干渉してはならない。
なぜなら、いったいなにが国家にそうした干渉の権利を与えることができるというのであろうか。一国家が他国家の臣民たちに与える騒乱の種のたぐいがそれである、というのであろうか。
だが一国家に生じた騒乱は、一民族がみずからの無法によって招いた大きな災厄の実例として、むしろ他民族にとって戒めとなるはずである。

[第二章]

永遠平和のための第一確定条項
各国家における市民的体制は、共和的でなければならない。
第一に、社会の成員が自由であるという原理、第二に、すべての成員が唯一で共同の立法に従属することの諸原則、第三に、すべての成員が平等であるという法則、この三つに基づいて設立された体制――これは根源的な契約の理念から生ずる唯一の体制であり、この理念に民族の合法的なすべての立法が基づいていなければならないのであるが、こうした体制が共和的である。

永遠平和のための第二確定条項
国際法は、自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである。
国家としてまとまっている民族は、個々の人間と同じように判断されてよい。つまり諸民族は、その自然状態においては、隣りあっているだけですでに互いに害しあっているのであり、そこで各民族は自分たちの安全のために、それぞれの権利が保障される場として、市民的体制と類似した体制に一緒に入ることを他に対しても要求でき、また要求すべきなのである。

永遠平和のための第三確定条項
世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない。
ここでもこれまでの条項におけるのと同じように、問題とされているのは人間愛ではなく、権利であって、友好(よい待遇)と言っても、それは外国人が他国の土地に足をふみ入れても、それだけの理由でその国の人間から敵意をもって扱われることはない、という権利のことである。




※カントは、この他「第一補説 永遠平和の保証について」「第二補説 永遠平和のための秘密条項」を付加し、自然の諸条件が人類に平和的共存を必要とさせる。公の記録文書には記録されないが、国家間の平和を可能にする諸条件について哲学者に自由に発言させることによって記録されない秘密条項を存在させているとした。
※さらに「付録」として「一、永遠平和という見地から見た道徳と政治の不一致について」「二、公法の先験的概念による政治と道徳の一致について」を著している。

http://www.amazon.co.jp/review/R1RBYB8WA792SB/ref=cm_cr_pr_viewpnt#R1RBYB8WA792SB晴らしき現実主義者カント, 2006/12/24
By 一大学講師

カントは、常にホッブスと対比される。そこでは、一般的に、カント的とは国家を克服し、地球市民となって“世界平和”的に協力的に世界平和をえること、ホッブス的とは“単独平和”的に、いわば一国が世界の警察官として、国家同士の闘争状態に終止符をうち世界秩序を維持すること、というように解釈されることが多い。少なくともド“素人”の私にはそのように感じられる。ヨーロッパ=EU国際連合は前者であり、最近はやや対話にシフトしつつあるが、米国のかつてのユニラテラリズムが後者と捉えているのが実情である。本当に果たしてそうか?この疑念のもと本著をひもといてみた。結果として、私に期待は大きくはずれ、カントを見直したのである(笑)。そこにはいわゆる国境なき地球市民としての“世界平和”をカントは著述してはいなかった。ホッブスと同様、“自然状態とは戦争状態にあること”が世界の実情であることを的確にとらえ、その上で、独立国家同士が互いに牽制しあいつつも、平和を維持するには国家間に国際連合的なものが必須であると説いているのであった。すなわち、カントは超現実主義者であり、そこには常備軍の廃止というユートピア的提案は確かに一部なされてはいるものの、国連はもちろん、VISAの原型や現行国際法では、まさしくカントの思考がここに照射されているのであった。一方のホッブスは、プラトン『国家』で推奨された哲人政治の利点を大きく認めたのであろう、リヴァイアサン=超国家(=現行では米国)による統治こそ世界平和の近道であると説いたのであった。かくいうカントもホッブスも、ともにリアルな世界史観のもと、最終的な方法論においての相違を呈しているにしかすぎないことが、本著によって確信されたのであった。翻訳であっても、原著を読むことが、世間的虚妄を払拭してくれる近道であることを改めて痛感した読後であった。解説本もなるべく読むまい!