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中国清華大学の「日本アニメ研」が愛される理由
2007年9月12日 水曜日 遠藤 誉
中国  日本動漫  アニメ  マンガ 
【筆者からの、ちょっと長い自己紹介】

 皆さん、こんにちは。

 私は遠藤誉(えんどう・ほまれ)と申します。私がなぜ、「中国動(アニメ)漫(マンガ)新人類」を書くことになったかをご理解いただくため、連載を始める前に、先ずはざっと、自己紹介をさせていただきたいと思います。

 1941年1月3日、私は中国の北の方にある、現在の吉林省長春市で生まれました。1945年8月15日に日本が敗戦すると、中国では毛澤東が率いる共産党軍と、今では台湾にいる国民党との間に内戦が起こり、長春はその主戦場になりました。この戦争は多くの犠牲を払いながらも共産党軍の圧勝に終わり、1949年10月1日に中華人民共和国(新中国)が誕生しました。

「日本鬼子!」と罵られて
 私はその時長春を脱出して北朝鮮との国境に近い延吉にいたのですが、1950年6月から朝鮮戦争が始まったため、その年の暮れに万里の長城を越えて天津に行き、天津で小学校に上がりました。中国人ばかりの小学校です。小学校では「日本鬼子!」とか「日本狗!」(いずれも「日本の鬼畜生!」という意味)と罵倒され、石を投げられ唾を吐きかけられて、自殺を試みたこともありますが、「悪いのは一部の軍国主義者だ」という担任の先生の言葉に救われ、その後はしっかり「毛澤東思想」の教育を受けて、1953年9月に日本に帰国して参りました。

 その後、理論物理の研究に没頭していたのですが、1983年頃から中国人留学生が増え始め、私は理論物理の研究を捨てて、中国人留学生の指導をする職場を選ぶことになりました。「自分は決して侵略主義者の子供ではない」ということを、今度は自分が日本にいて中国人と接し、中国人留学生のために貢献することによって、証明したいという心の叫びが、そうさせたのです。既に40を超え、子供も2人いましたが、それでも満たされないほど、小さい頃に受けた心の傷は埋めようもなく疼き続けていたのです。

 あれから約二十数年間の年月が流れていきました。

 私はいつも大学や大学院に入学する年代の中国人の若者たちと接触してきたことになります。その間、ずうっと、彼等の変化を見てきました。そして、どうにも納得のいかないものにぶつかり始めたのです。

 変化が出始めたのは、90年代の半ばあたりだったかと思います。特に私をハッとさせたのは、中国への思いでした。