ベアテ・シロタ・ゴードン講演録

私は1929年、父(ウクライナ出身の世界的ピアニスト、レオ・シロタ。ベアテの両親はともにユダヤ人。)が山田耕筰に呼ばれてオーストリアから東京に渡ってきました。日本女性、娘さん達の育てられ方も見てきました。当時、一家の母の役割を見ていると、女性の権利は全く無かったようでした。食事を作って会話には参加せず、しかも食事は一緒に取らない。給料だけは奥さんが受け取って配分していましたが、社会的権利はありませんでした。好きな人と結婚する権利、財産権、相続権も無かったのです。

アメリカに行ったとき(15歳で留学したことを指す。たー坊注)、日本の女性の地位のことを改めて思いました。入学したミルズ・カレッジ(Mills College)(カリフォルニアの女子大)の学長は女性でしたが、「結婚し、子どもを生むことは良いことです。しかし、女性は教育を受けて社会に貢献しなければならない」と言い、私はその言葉に影響されました。

第二次大戦が始まり、私は日本の父母と離ればなれになりました。戦争中、アメリカの女性達は台所から出て工場などで働くようになり、収入を得るようになります。女性の経済的自由は増しました。しかし、当時のアメリカでも、女性にほんとうの自由はありませんでした。私は1941年、タイムズに就職しましたが、タイムズでは当時、女性は記事を書くことができませんでした。女性はただ情報を集めて男性記者に提供するだけだったのです。

私は、戦争中、両親に会いたかったです。それで、戦争が終わったとき、軍属の仕事を見つけて日本に来ました。1945年の12月のことです。日本に来て、すぐに親を捜しに行きました。


当時、民間人は日本に入国できませんでした。(アメリカ軍の飛行機で)厚木の飛行場に着く前に(上空から)東京の変わり果てた無残な姿が見えました。私の大切な故郷は破壊されつくしていました。私はジープに乗って親探しをしました。乃木神社のそばにあった我が家の辺りは焼け野原になっていて、私は迷子になりました。一つの石の柱以外、何も残ってはいませんでした。

アメリカを発つ前に日本の両親に向けて電報を打ってありました。第一ホテルのロビーで、日時を指定して、待ち合わせをするはずでしたが、私の両親は来ませんでした。フロントの娘さんに、私を訪ねて来た人はいないかと、訊いたとき。(「シロタ」という名前を偶然聞きつけたドア・ボーイの)男性が「お嬢さん、もしかして、そのシロタさんという方はピアニストのレオ・シロタさんのことですか」「昨夜、その人の演奏をラジオのJOAKで聴きました」と言うので、すぐにJOAK(東京中央放送局)に電話をしました。電話で「昨日の夜、確かに、(レオ・シロタさんは)こちらのスタジオでピアノを弾いてました。今朝早く、軽井沢に帰りました」と聞いたので、その場で軽井沢の家に電報を打ちました。4年ぶりの再会です。…」 ある時、第一ホテル(当時、GHQ=総司令部が置かれていた)のフロントでレオ・シロタを探している、と言ったら、男性が「JOAKのラジオでレオ・シロタ(の声?)を聴きましたよ」と言ってくれました。放送に出て、軽井沢に行ったことを聞き、電報を打ちました。

東京に父が戻ってきました。私は涙を流しました。父の顔には皺がたくさんあり、痩せていたのです。ママは食糧不足のために病気になり、東京には来られませんでした。そこで、ママのいる軽井沢に行きました。

12月の軽井沢はとても寒かったです。配水管が壊れてあふれた水はそのまま床に凍ってスケートができるほど、タマゴはみるみるうちに固くなって割れなくなりました。布団を何枚も重ねてもらい、寝ましたが、それでも震えるような寒さでした。(たー坊注。当時のシロタ家の疎開先は、有島武郎の別荘だった「浄月庵」らしい。Wikipediaに拠る。なお、「浄月庵」は、「軽井沢タリアセン」内に現存、今は洒落た喫茶店となっている。)

私はGHQの民政局で仕事をしました。仕事は、女性の政党、小政党(当時、たくさんあったのです)の調査でした。

1946年2月4日の朝、民政局部長のホイットニーから呼び出されました。「あなたは今から憲法草案制定会議のメンバーです。マッカーサーの命令で憲法を作るのです。」メンバーは20人ほどでした。

まとめ役のケーディス大佐が仕事を振り分けました。人権に関する草案の仕事は3人でやりました。男性2人と私です。

私はジープに乗っていろんな国の憲法を調べました。一つの図書館で憲法の本をたくさん集めると怪しまれるから、いろんな図書館に行って本を集めました。その本は、同僚にも歓迎されました。

マッカーサーの命令で、急いでやらないといけなかったので、朝から晩まで毎日、ものすごく大変でした。一週間で草案を作る必要があったのです。

メンバーは、私を除いて、全員、40歳以上の、男性弁護士でした。私が考えた社会福祉関係の条文(※下記注参照)に彼らは反対しました。「そういう詳しいもの(社会福祉関係条文)は、憲法には合わない。そういうものは民法に入れるべきだ」と言ったのです。しかし、私は、官僚的な男性達は、実際に民法を作る段になると、それを盛り込まない可能性があると思って彼らと戦いましたが、削られてしまいました。結局、日本国憲法24条(男女平等)、25条(生存権、国の生存権保障義務)に私の考えたことが入ったので、満足ではなかったけれども、受け入れなければいけませんでした。

補足:GHQ本部はお堀り端の第一生命ビルで、その6階にベアテさんの勤務する民政局がありました。ベアテさんは神田会館(YMCA)を宿舎に割り当てられ、そこから歩いて通勤していました。他に、高級将校と重要民間人の宿舎には帝国ホテルを、GHQ女子将兵の宿舎には主婦の友社が割り当てられてました。
 (このように、アメリカ政府は、来たるべき日本占領に備えて、あらかじめ主だった建物を爆撃目標から除いておいた。)

(1946年の)3月4日、極秘の会議がありました。民政局の運営委員会と日本政府代表との会議です。10時から始まったその会議は、一歩も外へ出ることが許されず、食事はまずい進駐軍の缶詰でした。

私は、その会議に通訳として出席しました。ジョセフ・ゴードン中尉も一緒に参加しました。私は、のちに、このゴードン中尉と結婚しました。(拍手)

天皇制についての議論が一番長かったです。言葉の使い方で大騒ぎになりました。(たー坊注:「輔弼(ほひつ)」と言う語の解釈問題などを指すか。)会議は、日本政府草案を基本に比較が行われました。私は、早い通訳だったので、喜ばれ、日本側に良い印象を持たれました。

朝2時に男女平等の条項が問題になりました。日本側は、「日本の歴史、文化に合わない」と言い、強く抵抗しました。皆、疲れていました。その時、ケーディスが(この人はとても頭のいい人でした)、「ベアテ・ソロタさんは女性の権利を心から喜んでいるので、それで可決しましょう」と言いました。それで、24条を通過させたのです!

注釈:ベアテさんは日本側の通訳を不自然なく助け始めて、話し合いをスムーズにさせるのに大変役立っていました。そのことが、会議に参加している人たちにとても良い印象でした。

(その状況を読んだ)ケーディスは「ベアテ・シロタさんは日本の女性の権利を心から望んでいるので、このまま可決しましょう。男女平等を作ったのはこの人なのです。(このときケーディスの目は「ベアテさんの気持ちをわかりますね」と、まわりの人に訴えていたんだと思います。)

私は、日本政府の代表者が男女平等に反対したことに驚きました。女性についての議論が、天皇制の問題ほどに強かったのです。日本代表は「わかりました。」と言いつつ、顔は怒っていました。

1952年、占領軍が帰国し、日本国憲法マッカーサーの命令を受けて決定していった経緯を知った保守的な学者と記者は、「押しつけられたのだから(憲法は)改正すべきだ」と主張しました。

しかし、皆さん、普通、「押しつける」という言葉は、悪いものを押しつけるときに言うのです。(笑、拍手)良いものを「押しつける」とは、普通、言いません。日本の憲法は、アメリカの憲法よりいいのです。だから、それを「押しつけた」というのは正しい表現ではありません。(大きな拍手)

日本では19世紀から婦人選挙運動がありました。だから、この新しい憲法は国民に喜ばれたのです。日本は、漢字・仏教・陶器・雅楽などを外国から輸入して自分のものとしました。外国人の手が加わったものだとしても、良い憲法ならいいではありませんか。日本の憲法を書いた彼らは(民政局の人々は)世界の憲法のいいところを集めようとしました。日本の憲法は、世界の叡智だと思います。(拍手)



私が憲法24条(男女同権の規定)のもとを書いたことはGHQの秘密でしたし、若い女性が書いた、と知られることの影響などを考えて、私はこのことをずっと秘密にしてきました。新聞記者のインタビューにも答えなかったのです。(彼女がそれを明かしたのは、1995年。たー坊注)

しかし、当時の22歳と今の22歳とでは大きな違いがあります。(会場から笑い)私は、6カ国語を話しました。これは、東京で習ったのです。22歳でヨーロッパ、アジアを旅行しました。日本にいるとき、憲兵隊は毎日、私の家へ来て情報を集めていました。抑圧された状況を自分の眼で見て、理解していました。だから、私は、何も知らない小娘ではなかったのです。(拍手)

1947年にIBM社への就職を希望しましたが、当時は夫がいる婦人は雇ってもらえなかったのです。(会場からため息)私はスペイン語を話せたので、私がいればIBM社は私のスペイン語を生かせたはずです。コンピューターは、45年間?、スペイン語を翻訳できませんでした。そのことを、私は笑ってみていました。1998年(92年か?たー坊)、ようやくコンピュータ−がスペイン語を翻訳できるようになったのです!(笑)

私は、東京で語学の他にバレエ、モダンダンス、日本舞踊も習っていたので、それを生かしてバレエとモダンダンスの教室を開きました。(日本舞踊は難しすぎて、役立たせることはできませんでしたが。)カレッジでフラメンコもやっていたので、それも役に立ちました。

その後、ニューヨークへ行き、銀行で翻訳の仕事をしましたが、あまりに仕事がつまらなかったので、それはすぐにやめました。その後、コロンビア大学にやってきた婦人参政権運動家の市川房枝さんの通訳になりました。市川さんは、あるとき、アイゼンハワー大統領の娘のメイミーさんへの面会を希望しました。私は交渉しましたが、メイミーさんは病気だったので?かないませんでした。ところが、意外なことに、大統領の、冷たい感じの男性の秘書から電話がかかってきて、アイゼンハワー大統領が市川房枝と面会すると言うのです。これは驚きました。が、私は決然としてこう言い放ちました、「市川房枝が会いたいのは、大統領ではなく、娘のメイミーです!」と。(笑)

大統領と市川房枝の面会が実現しました。質問内容は、私のアドバイスで、新聞記者と相談して用意していきました。例の、冷たい感じの秘書が「面会は10分」と告げましたが、会見は20分に及びました。大統領は私に言いました。「あなたは、今までで一番優秀な通訳です。」と。うれしくなって、夫にそのことを話したら、夫は「大統領は日本語がわかならいのに、いい通訳かどうか、わからないじゃないか」と笑いながら言いましたが。(笑)

 日本の最初の女性の投票権が実現したとき、投票所はエプロンを着けたたお母さんやおばあさんで賑わって、すごかったです。この選挙によって、39人の女性代議士が当選しました。こうして選挙では男女平等が実現したのですが、男女平等を日々の生活に含ませることはほとんどないような状況でした。
 私たち、目覚めた女性は、毎日(生活の場面でも政治的運動の場面でも)女性の権利のために闘わなければいけないのです。 また、男女平等は日本だけでなく、世界の女性の問題でもあります。日本の女性は、いろんな国の人達に、この日本の進歩を伝えないといけません。

 今、全世界が物質的になりました。お金が「仏」になったようです。多くの人が自分の家庭のことだけを考え、自分の家庭が社会の一部であることを忘れているようです。

 私たちは社会全体に目を向けなければなりません。社会全体を豊かになることが、家庭を豊かにするのです。

歴史的にみれば、60年は長くないのです。

『世界』憲法論文選 1946‐2005

『世界』憲法論文選 1946‐2005

 http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/2/0236650.html
「『世界』憲法論文選 」(井上 ひさし,樋口 陽一 編)
↑こちらの本に「世界」1993年6月号のベアテさんへのインタビューが載っています。

http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0236650/top.html
↑題名「わたしはこうして女性の権利条項を起草した」のところから本文を覗けます。良い本だと思います。

http://www.jca.apc.org/nashinoki-sha/jiyusiri-zu/jiyu1.htm
↑「金子文子 わたしはわたし自身を生きる」(鈴木裕子編)
これなどを読むとベアテさんと同年齢の日本女性の境遇が分かってくるかもです。

女性史を振り返るなら鈴木裕子(1949年東京小まれ。早稲田大学大学院文学研究科修士課程日本史学専攻修了)の著作がよろしいかと。
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/shohyo/umeda404.html

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%97%E9%96%D8%97T%8Eq/list.html