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<おちおち死んではいられない>

 ◇教育の荒廃、すべての根−−僧侶・元教師・80歳・無着成恭さん

 ◇点数序列主義の今の学校が、子供にいじめをさせている

 大分・国東(くにさき)半島の由緒ある仏の里、六郷満山(ろくごうまんざん)。東側の山あい、こけで緑がかった石段を上ると、室町時代からある曹洞宗泉福寺(せんぷくじ)の本堂が見えてきた。無着成恭さんはここで住職をしている。

 山形県の寺に生まれ、10歳で得度した。教育の世界から退き約四半世紀。大本山総持寺(そうじじ)の特命で03年、千葉県の福泉寺(ふくせんじ)から移った。家屋から本堂への階段は79段、足の不自由な妻は上れない。大小20以上の建物がある広大な寺院を一人で守る。

 「部屋はほとんど日が当たらないから、寒くて暗くて。ここが一番いいんです」。時折出る山形なまりが心地いい。案内してくれたのは、家屋と修行道場をつなぐ、渡り廊下だった。

 なぜ教育から仏教へ? 「『授業』と(いう言葉)は業(カルマ)を授けること。人間の自由にならない生老病死を正しく受け止められるか、それが生きることであり、授業です。学校であろうがお寺であろうが同じです」

 灯油ストーブで熱したやかんから、焼き芋を取り出してくれた。芋をほおばって言う。

 「お釈迦(しゃか)様の教えに反するけど、檀家(だんか)の集まりで『五戒』をこう変えて言ったんです。この寺は、殺すな、盗むな、うそつくな、そこまでは厳しいぞ。でも、酒と女はニゴウまで、って」。みんなにやっと笑い、合言葉のごとく復唱するようになったとか。学校でもこうして、子供の心をつかんだのだろう。

     ■

 戦後間もなく、生活に根ざした作文を書く「つづり方教育」が流行した。きっかけは無着さんが手がけた「山びこ学校」(岩波書店など)。教師になって最初の3年間、山形の中学で受け持った生徒43人の作文をえりすぐった。

 雪がコンコン降る。

 人間は

 その下で暮しているのです。

 この3行で雪深い山形の情景を描いた詩「雪」。そして、両親を亡くし、兄弟と別れる少年が、どうしたら生活が楽になるかを考えた「母の死とその後」など、生徒が貧しさに向き合って思考する様子が描かれ、大きな反響を呼んだ。

 「山びこ学校の成功は、親が子供に道具の使い方を根気よく教えたから。親が山や田んぼで働き、子供は手伝いながらかまやのこぎりの使い方を覚える。いわば徒弟制の教育を、学校教育と同時に受けたのです。それが子供の知恵を発達させた」

 その後、東京の私立学校に移り、さらに二つ、教育実践の記録を残す。1970年の「続・山びこ学校」(むぎ書房)と82年の「無着成恭の詩の授業」(太郎次郎社)だ。「続」は体系立った教科教育の重要性を説き、「詩の授業」はさまざまな詩を子供と堪能した。

 第1作が生活重視だったのに、続は教科教育の徹底だったこともあり、三つの実践は「一貫性がない」との批判もあった。でも、どれも自分の考えをじっくりと書かせる点で共通する。

 「書く中で、自分がいったい何なのかが見える。今の学校では、書く能力は評価されないからあまりやらない。でも、じっくりやれば、普段の授業のばかばかしさに気付くはずです」

     ■

 食品偽装が続発したかと思えば、今度は製紙業界でも偽装が発覚した。親殺し、兄弟殺しなど、家庭を舞台とした事件もなくならない。無着さんはこの根っこに、教育の荒廃があると感じる。

 「今の日本人を作っているのは学校教育。中でも一番悪いのはペーパーテスト、点数序列主義です。ここの間違いはマイナス5点、ここでマイナス5点……と減点する。物の本質を教えずに、こうすれば答えが出る、としか教えない。事件を起こした人間は、自分のやったことが何なのかさえ、分かっていないのでしょう」

 「人間を点数で区別し徹底的に順番を付けることこそ、いじめの本質。つまり、今の学校教育が、子供にいじめをさせているようなもの。『いじめるな』といっても無理です」

 点数序列主義、行き着く先は「イチバ主義」と信じている。

 「イチバは市場。つまり経済主義です。国同士の関係を見ると、イチバ主義は最終的には戦争で解決しなければならなくなる。米国は今、株が下がっている。すると、解決には戦争しかない、との発想につながるわけです。ばかばかしい話ですよ。いじめと根っこは同じだ」

 お寺の境内から、小学生とおぼしき男の子たちの走り回る声が聞こえてきた。地区全体でも10人もいない。「一緒に遊ばないけど、境内の掃除は一緒にしたりする。(私は)『あまり勉強するな』って言っているよ」

      ■

 お上には従え、との風潮には黙っていられない。だから、国の在りようになると、ボルテージは上がる。

 「この国はどこへ行こうとしているのか、政治家は分かってないんじゃないの。どの首相も、宗教とは何か、全く勉強していない。だからアイデンティティーがないんだ。宗教からしアイデンティティーは出てこない。外国の首相や大統領には掛かり付けの宗教者がいるし、上杉謙信武田信玄の後ろにはお坊さんがいたんです」

 教育行政に対しても舌鋒(ぜっぽう)は鋭い。「国が教員に免許を出すということは、国家の思惑がもろに出るということ。大学(で教える人)には教員免許などない。言葉はきついが、飼い慣らされた人間が免許を持っていると言える。本来、教育とは極めて私的なもの。郵政よりも、文部科学省こそ民営化すべきです」

 世の大勢に逆らって発言し続けたが、結局は何も変わらなかった。その徒労感も言葉の端々ににじむ。「農業を滅びさせ、徒弟制度教育を否定した国はやっぱり醜く滅びるしかない。私は負けたんです。本当の民主主義を支える自立心を一人一人にたたき込めなかった、その意味で負けたんです」

 何に負けたのか。国家か? 世の中? それとも時代? そう尋ねると、語気を強めた。

 「わかんねえよ、そんなの。でも、負けても勝っても変わらない。だって、言いたいことを言い続けなきゃ、おれが生きてきた意味がないから。誰も聞いてくれなくても死ぬまで言う。『人間はこんなんじゃねえよ』って」【遠藤拓】

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 ■人物略歴

 ◇むちゃく・せいきょう

 1927年、山形県生まれ。山形師範学校卒。山形県山元中教諭を経て駒沢大仏教学部卒。明星学園を退職し、現在は大分・泉福寺住職。TBSラジオ「全国こども電話相談室」回答者を33年務めた。近著に「『狂い』の説法」(共著、ぶんか社)。

毎日新聞 2008年2月1日 東京夕刊