証言者の宮城喜久子さんの話

 私は40年間この場所に来れませんでした。友達を見捨てた罪の意識と自分だけが生き残った申し訳なさで苦しんでいました。
 しかし、学園の友達やお姉さんが「勇敢に闘った英霊」と言われていることに強い悔しさを感じ、戦場で死んでいった人たちの思いを正しく理解してもらうためにと、ひめゆり祈念館を作ることにしたのです。
 間違った教育が間違った戦争と友達の犬死を作り上げていったことを知ってもらうためです。教育の力が今後恐ろしいことに使われないようにという思いです。この会館は公的補助は一切受けずに作ったのです。公的補助を受けてしまうとどういうことになるかお分かりですね。
ひめゆり」が靖国神社と同列の「戦死者を「英霊」化してお国のために美しく戦死した」という教育装置になってしまっては、戦争を美化することなになり、また、再び戦争を始める道具にされるようでは亡くなった友達の思いが捻じ曲げられてしまいます。
私たち生徒から見た沖縄戦は、友達の犬死なんです。

(1945年6月21日)私は荒崎海岸で捕虜になりました。小さい頃からの教育でアメリカ兵は怖いと思い込んでいたのですが、そのときの兵隊さんは優しかったんです。そして北部にある米軍の収容所に行ったとき、アメリカ兵に、すぐに先生になりなさいと言われました。収容所の子どもたちを教えたんです。その少しあとになって、教員免許がなきゃだめだと言われ、昼間は仕事、夜は大学に行き教職単位を取るためにと、とても忙しかったのです。
 
 みなさんがひめゆりの塔を見学に来て、亡くなった方々の名前が碑に記されているのをご覧になると、みなさんなら名前の文字だけが見えるだけでしょうけれど、私には当時の顔が見えて声が聞こえるんですよ。
 私は長い間ここには来れなかったのですが、戦後36年たってからようやく来ることができました。ガマに降りることが出来たのは戦後40年です。その遺骨収集(1985年)のとき思いがけないものが出てきました。赤い筆箱、黒い下敷き、弁当箱。当時は自分の持ち物にかならずカタカナで名前を書いておくんです。赤い筆箱を手に取って汚れを払うと“ナカザトミツコ”とありました。黒い下敷きには“ナミヒラセツコ”。弁当箱には“アラガキ”とあって、これは“ああ、新垣先生のものだ”って。
 私がいた陸軍病院は第三外科壕で、ケガをした兵隊さんが2000人も3000人もいました。ここに来るまでは後方の安全な場所で看護婦さんのお手伝いをしていればいいものと考えていましたが、とんでもない! 戦場のまっただ中です。すぐ近くに爆弾は落ちるし、機関銃の掃射はしょっちゅうです。
 私は引率の先生に「病院には爆弾は落ちないって聞いていたのになぜ落ちるんですか」と聞きました。先生もおどろいた顔で「おかしい、おかしい」というばかりです。先生も戦争がどういうものかまったく知らなかったんですね。
 病院はものすごい悪臭で鼻と口をおおいたくなるのですが、日本の軍に怒られます。吐きそうな臭いでも鼻と口を手でおおうことが許されなかったのです。
 ケガ人がつぎつぎに運ばれてきて、それも普通のケガではありません。血みどろでどこに傷があるのかさえわからないのです。見ると手がなかったり足がなかったり、顔が潰れていたり。本当に怖くて怖くて、何をどうしていいかわからなくて、ただ立ちすくみ、震えていると、軍医が「ばか者!!何をしている、ここは戦場だ、お前たちは看護に来たんだ!しっかりしろ!」と怒られてました。

 私たちは皇民化教育で、天皇とお国のために奉仕するのが当たり前と信じ込まされていましたから、日本軍にの命令に従い一言のグチもこぼさずにがまんしました。

 ケガをした兵隊さんが“とってくれ、とってくれ”といいます。何をとってくれといっているのかと思いますと、傷口に白いものがたくさんついています。とても十分な手当などできませんから、ウジがわいているんです。そのウジが人間の肉を食べているんです。その音が聞こえるんですよ。

 いつの間にか、死体や手足を捨てに行くのにも慣れてしまいました。
 毎日やっていると感覚がおかしくなってしまうんです。
 死体を見ても何とも感じないんです。
 外からやってくる日本兵には「悪魔の少女」と言われ、恐れられるようになっていました。

 「ピンポン玉おにぎり」と呼んでいたのですが、ピンポン玉一個分の大きさのおにぎり一つが私たちの一日の食事でした。
 夜は井戸に水を汲みに行きました。弾が飛んで来るので、井戸まで這って行きます。頭の上を花火のように光る弾が通ります。井戸では水汲み来る人を狙って撃つのですが、その死体が浮いている井戸です。
 いつも夜なので、暗くて色が分からないのですが、その血の匂いのする水を飲み、水筒いっぱいに水を汲んでガマに戻りました。
 ガマに戻ると動けなくなった友達に水を飲ませました。その友達には「ありがとう」「ありがとう」と言ってもらえました。

      • 中略----

 私たち動員の命令が下ったときです、学校から親の許可を貰ってくるようにいわれました。
 私たちには皇民化教育が行き届いていましたから、天皇と国のために命を捧げることができるのを誇りに思っていました。とくに、沖縄の私たちは日本人と区別されることが悔しかったので、これで正真正銘の日本人になれると思っていたのです。
 ですから、親もきっと喜んでくれるものと信じていました。ところが親のいうことは予想と違っていました。
 父親は“おまえを16歳まで育てたのは死なすためじゃない”といいます。 母親は“戦場に行ったら死ぬかもしれないよ。みんなで逃げなさい”といって泣きます。
(明治の教育と戦前の昭和の教育の差がここにあります。)

 私は“そんなことをしたら非国民にされる”と聞き入れませんでした。
 若い私たちには皇民化教育が心の底まで染み渡っていたのです。


 ---中略---

 南に向かって逃げ、荒崎海岸にたどり着いたとき、「今日は静かだね」と、教頭先生や友達と話しながら休んでいました。
そのとき突然、日本兵たちが私たちの方に逃げてくるんです。
その日本兵を追って米兵も現われました。
私は米兵が撃つ弾を避けました。たおれ込むと同時に私の顔の隣には撃たれた友達の顔、右肩には日本兵の体がおおいかぶさりました。

私は手りゅう弾を取り出し、手に握ってピンを抜こうとしたとき
「兼城さん、手りゅう弾をおいて」という比嘉さんの声が聞こえました。(兼城は当時の姓だそうです)
 どうしようかと一瞬迷いましたが、言われるままに手りゅう弾を地面におこうとしたとき、米兵がさっと手を伸ばし、私の手から手りゅう弾を奪うように取り上げました。
 手りゅう弾を取り上げると、米兵は二人に突きつけていた自動小銃を下ろし、「へーエーイ、スクール、ガール、スクール、ガール」と声をかてきました。
ついさっきの銃を構えていたときの怖い表情とはうって変わり、やわらかな顔で私たち二人に声をかけるていました。
 それはあまりにも意外な米兵の態度でした。

 その直後、米兵の間をかき分けるようにして、さっき教頭先生といっしょに座っていた場所に飛び下り、みんながいた岩かげに目をやりました。
 その瞬間に見た光景を、私は生涯忘れることができません。
岩を鮮血で真っ赤に染めた中に、十名の学友が折り重なるように倒れていました。

 米兵が来るのを察知した一瞬、左に避けた私たち二人は生き残り、右に避けた教頭先生とみんなは死んでしまったのです。

 信じられない事実を前に、私たちはふらふらとしゃがみこんでしまいました。あまりのショックに、私たち二人は泣くことも忘れていました。すこしして、意識がもどったとき、私たち二人は声をあげて泣いていました。

 教頭先生の倒れている近くには、一高女三年生の金城秀子さん、座間味静枝さん、浜比嘉信子さんが倒れていましたが、肉片が飛び散り、誰であるか判別できないほどのむごい姿になっていました。四年生の宮城貞子さんは、岩にもたれ、空を見上げるようにして死んでいました。お人形のようにきれいな目をして、美人だとみんなから言われていた貞子さんは、頬のあちこちに小さな穴があいていましたが、きれいな目をパッチリと開けたまま死んでいました。同じ四年生の板良敷良子さん、普天間千代子さん、宮城登美子さんが、貞子さんの近くに倒れていました。やはり体に損傷はないように見えました。ふと、千代子さんが「ウーン」とうなるような声をあげました。生きている!と思ったのですが、千代子さんは私の目の前で息を引き取りました。
 比嘉さんが、千代子さんのポケットから万年筆を取りました。この万年筆は後に家族へ届けられました。先輩の瀬良垣えみさんと比嘉三津子さんは、みんなから少し離れた場所に倒れていました。米兵の自動小銃が乱射される中、手りゅう弾のピンを抜いたのです。

…この話の途中で金城喜久子さんの頬が震え、目が涙ぐんでいました。

参考:「ひめゆりの少女 十六歳の戦場」(宮城喜久子著) 
http://www.koubunken.co.jp/0175/0160.html
証言を聞きながらのメモから書いたので、宮城さんの表現とは違いがあると思います。 
宮城さんの話を直接聞くチャンスがあったら聴きに行ってください。