「ゆとり」か「学力向上」かの2項対立を脱する時

しんぶん赤旗「学問・文化」のページに東大助教授・教育社会学本田由紀http://jww.iss.u-tokyo.ac.jp/mystaff/yuki.htmlのコメントが大きく載っていた。


「いま、子どもたちに望まれる学力とは」
 教育再生会議の報告(「ゆとり教育」見直し、「学力向上」のため授業時間を1割増やし、読み書き計算など基礎・基本を反復・徹底するという報告)に限らず大きな問題だと思うのは、日本の教育政策が「ゆとり」と「基礎学力徹底」の二つしかなく、その間を揺れ動いていることです。私は、その二項対立では望ましい方向に踏み出せないと考えます。
「生活や将来の体系的知識を」
教育再生会議が「基礎学力」というのは、知識の暗記、抽象的な記号操作の速さなどの力です。授業時間を増やすという同会議の報告は、子どもたちに「いいから、やっとけ」「文句を言わずやれ」という感じです。締め付ければやるだろうと。
 しかし現状は、子どもたちはそういう押し付けからすでに十分、離反しています。成績の高い層は、とりあえず「基礎学力」をつけ進学しますが、彼らの一定部分は大学という自由度の高い場所きて何をしていいのか見失ってしまいます。普通科の「底辺校」といわれる学校では子どもたちは勉強意欲を失っています。三角関数うんぬんが自分にとって意味あるものと思えないのです。けれどもバイトや文化祭などでは、彼らは生き生きと活動しています。
 一方、文科省の揚げた「ゆとり教育」はどうだったか。「新学力観」では「教師は教えるのでなく支援する」とされ、体系的・組織的な知識を示さず、「思い思いに感じてみよう」「調べてみよう」というだけ。それでは普遍的な課題や目標につなげていくことが困難で、子どもの向上心をかきたてることもできません。
「基礎学力徹底」でも「ゆとり」でもない第3の方向への教育の質の改善が必要です。学校教育の中身を、子どもにとって無意味でストレスに満ちたまま放置するのではなく、学ぶ意義が感じられ、これなら勉強してみたいと思えるものにすること。生活や将来の仕事との関連を示し、関心に即した切り口で体系的知識を増やす必要があります。
「地元の学校で教育の質高く」
 問題は授業の量ではありません。フィンランドなど国際学力調査で成績上位の国の授業時間は短く、国際学力調査の分析でも授業時間数と成績の関連は認められません。
 これまでの社会では、標準化された教育内容を消化・獲得することが求められ、その結果達成された成績や学歴が、その人のその後の社会的位置付けを大きく決めました。そこで求められた能力が、知識の暗記、公式の適用、計算の習熟などでした。
 しかし社会が消費化・情報化し文化や価値が多元化するなかで、意欲、創造性、対人関係能力など、新たな能力が求められています。これらは経済界が求めているというだけでなく、子どもや若者自身に重視されています。「対人能力」に自信のない層は、学力に関係なく進路不安が強いことも調査から分かっています。
 けれども、このような能力は個人の生来の資質や家庭環境で決まる部分が大きく、より不平等です。社会的選抜おいて、このような不定形な能力が求められ、人格にかかわる評価に丸ごとさらされることは、個々人に耐えがたい圧力をもたらします。
 私が『多元化する「能力」と日本社会』で提起したのは、そうした能力が求められる社会のすう勢をある程度避け難いものとした上で、その害悪を緩和する歯止めが必要だということです。その方策として、学びの入り口としての生活や社会との関連性〜子どもの「生」と密接に関係づけた体系的な知識と技能〜の重視が重要であり、「学力向上」か「ゆとり」かという2項対立を脱する道でもあると考えています。
 いまの「教育改革」についていいたいのは、教育に市場原理を持ち込むなということです。競争と淘汰で質を高めるという方法は教育にはあてはまりません。質の向上の前に荒廃が起きます。学校選択性で新入生が減った学校では、部活が成り立たなくなるなど在校生の教育活動が壊されています。生徒が集中した学校では、人数が増えたことで質の低下が起き得ます。どこであれ、近所の子どもと一緒に地元の学校に行けば、教育の質も高く親も安心−それが公教育制度本来のものであり、多くの人の望むものではないでしょうか。

新聞を見ながら打ち込んだので誤字脱字があったらごめんなさい。