ルポルタージュ記事   

赤旗20070731/0801(転載)

「青年雇用集会と若者たちの再起」(上)浅尾大輔
  深夜、マック難民との出会い
 日本の労働運動は、2007年5月20日を境に新たな段階へ入ったと思う。この日、若者たちは、みずからの手だ、声で、「人間らしく働きたい!」と表明し、それを世に認めさせた。この新しい連帯の宣言は、暗い時代に射しこむ一筋の希望となった。

 雇用集会の5月19日午前零時過ぎ、JR鶯谷駅前のマクドナルドで読書する首都圏青年ユニオン書記次長の山田真吾に弱々しい声がかかった。
「あの、す、すみません……、あ、あたし、いま、お金がなくて」
 声の主は、2階壁際のロングカウンターで少し離れて座っていた若い女性だった。
 山田は「何だろう、こんな時間に」と不審に思ったが、いつもの労働相談のように「詳しく話してみて」と、自然に語りかけていた。
 マックのコーヒーは一杯目100円飲み放題。24時間営業の店内には、勉強する学生、雑談を交わす男性、テーブルに突っ伏して寝ている年配の男性がいた。
 野村小百合と名乗った女性は、25歳。東北出身で、新聞奨学生として都内の大学を卒業したものの、就職先がなく一時帰郷。母親との関係が悪化して再び上京、住み込み派遣の仕事で働いていたという。
「寮費無料と言われたのに、1か月前に社員から『俺と寝たら無料』と迫られ、逃げ出したんです。この間、いろんな人の家を泊まり歩いて……、あ、あたし、どうしたらいいですか?」
 山田が「あなたはどうしたいの」とたずねると、「東京で生活したい」と答えた。深夜だったが、書記長の河添誠に携帯電話をかける。
生活保護の申請をしてみようか。20日の集会に『もやい』の湯沢さんが来るから、彼に相談してみようよ」(河添)
「いまいくらある?」「1万円くらい」「今夜、しのげる?」「う、うん」
 山田は、名刺の裏に自分のもの共産党区議の電話番号を書きこむと、「万が一のときは電話して。それで、20日は明治公園に必ず来るんだよ。来ればとにかく安心だから」と諭すように言い伝え、彼女の小さな手のひらに押し付けた。
 野村は、なぜ山田に話しかけたのか。「客のなかで一番まともに見えたから」と笑うが、この夜、山田が読んでいたのは最低賃金を論じた本だった。私には必然的な出会いに思われて仕方がない。


 同日午後7時、山田の携帯電話が鳴った。警察署の代表番号が表示され、「野村百合子を保護した」と告げた。警察官と代わった彼女は「不安で、とっても不安で……」と繰り返した。
 山田は「今から迎えに行くからそこにいてよ」という。すると、受話器から「あたしなんか、もう、どうでもいいかも……」と、ほとんどあきらめ切った声が返ってきた。「いままで、あたしが選んできた道で、いいことなんかひとつもなかったから……」
 その瞬間、山田は「何言ってんのっ、生きてることが大切なんじゃないかっ!」と叫んでいた。
 山田は集会の準備をしていた組合員の佐藤若菜に声をかけると入谷警察署に向かい、野村小百合の身柄を確保した。当分の間、佐藤のアパートに泊めることにした。
 JR上野駅のコインロッカーに野村が預けているのは、紙袋に入ったパンプスとスーツ1着、そうして「洗ってない服が入ってるんで」と赤くなって抱えたボストンバック一つ。帰路についた3人は、コンビニに入ってお弁当と総菜、お茶、チョコとヨーグルトを買い込んだ。やがて組合事務所の明かりが見えた。「ここまでくればもう安心」山田が声をかけると、野村小百合はこくりとうなづいた。
 3人をむかえた組合員の徳永裕介は、「たった一人の人間の尊厳を守るユニオンの姿を実感した瞬間だった」と振り返る。
 翌20日、快晴となった全国青年雇用集会の会場に野村小百合の元気な姿があった。私が声をかけて感想を求めると、「ちゃんと生きる場所を求めて、こんなにたくさんの人が集まるなんて」と目を丸くした。
 一晩泊めた佐藤若菜は、言う。
「彼女は、私が生まれた日の4日前に生まれて、だから同い年なの。彼女は、人生の一番美しい時を不安と孤独と、自己嫌悪の中で暮らしてきた。生きている自覚も持てず、我慢ばかりしていた。私だってホームレスになる可能性がある。絶望しそうになるよ」
 若者3300人の大パレードが始まった。野村小百合は、誘導する宣伝カーに乗り込んだ。私が窓ガラスを指でたたくと、彼女も指の先を付けてきて、恥ずかしそうに笑った。
 6月、ユニオン事務所に手紙が届いた。
「命を助けてもらって感謝感激雨あられ。山田君と会えてなかったら、あたし、のたれ死んでいたかも。山田君カッコイイ。これからあたしも頑張るから心配しないで」

「青年雇用集会と若者たちの再起」(下)浅尾大輔

16歳が選んだ新しいカード

 4月23日の夕方、私が首都圏青年ユニオンの事務所に顔を出すと、書記長の河添誠と福家菜津美さんが、団体交渉の打ち合わせをしているところだった。
 河添が「労働基準法っていう法律があってね、その第89条に就業規則の規定があるんだよ……」と説明すると、菜津美さんは「……会社のクルー・パスポートのことかな?」と訊き返す。2人の姿は、まるで熊と白ウサギが草の上で勉強会を開いているように見えて微笑ましい。
 3月下旬、彼女は、ウエートレスとして1年間働いていたレストランから解雇通告を受けた。掛け持ちのバイトだったが、悩みに悩んだ末、解雇撤回を求めてユニオンに加入。ユニオン結成以来の最年少組合員だ。


 あの日のことは忘れられない。午後5時半からの勤務。遅刻寸前、「おはようございまぁす」と声をかけ、休憩室に駆け込む。制服に着替えようと更衣室のノブを取ると、バイトの同僚が「はら、あいさつ」と呼び止めた。隣に新しい店長がいた。おずおずと「福家菜津美です」とつぶやいて、茶色い髪を下げた。
 制服に着替えて社員室に入る。改めてあいさつすると、新店長は「この店は極めてルーズだ。あいさつできないような奴が都合のいいシフト表を出してきたり、あなたの髪の色も……。これから個別に話していくから」
 「なぜ染め直さなければいけないんですか」
即座に言い返していた。
「規則だからな」「1年間この髪の色で働いてきたんですけど」「直しなさいっ」「納得いきません」
 社員室は、16歳の少女と新店長との議論の応酬の場となった。
 仕事を終えて帰宅の途中、菜津美さんは、わんわん泣きながら自転車を走らせた。 
 菜津美さんは、振り返る。
「中学出て初めての職場だった。働く姿勢では誰にも負けない自信があったのに」
 信頼していたバイトの先輩が手のひらを返したように新店長にペコペコし始め、正社員は「あんた、髪ぐらい染めちゃいなさいよ。2、3カ月分の賃金払えばいつでもクビにできるんだからね」とせまってくる……。
「人間関係は壊れ、悲しいというより、悔しかった。『みんなおかしいですよ!』って、大声で叫びたいけれど言葉にならなくて」
 中三の夏、菜津美さんは「高校は行かない」と固く心にきめた。障害を持つ生徒を「3歳児」と表現する教師と「いじめ、楽しいじゃん」と屈託なく笑う級友たち。一度も学校が楽しいと思ったことのない菜津美さんは、耳鳴り・吐き気・頭痛に苦しんだ。
 私には、16歳の少女の異議申し立てが、大人がでっち上げたこの世界に対する強烈な違和感の表明のように思われた。
 新店長は「すぐに髪を切れとは言わない、まず直す努力を見せろ」と脅してきた。
「筋が通らない。下っ端のわたしをとにかく命令に従わせたかったんだと思う」
 菜津美さんを励ましたのは、母親の久美子さんとお姉さんだった。
「納得できないならたたかうことができるのよとユニオン加入の背中を押したんです」


 4月23日午後7時から始まった団体交渉で、会社側は、従業員の髪の色を指導した理由を「全店舗で統一的なイメージを展開するため」と主張。しかし、実際は、店長の主観的な判断で指示していることが判明した。
 団体交渉の最終盤。菜津美さんは凛とした表情で会社に訴えた。
「1年間働いて時給が800円から820円へ上がったのです。前の店長は『頑張ってくれているから時給を上げた』と言ってくれた。この20円は、私が認めてもらった証明。それを新店長は『僕の知らない1年間のことはどうでもいい』と言い放った。このまま解雇されるのは絶対に納得いかないのです」
 果たして菜津美さんの解雇は撤回された。
 午後8時半、公園で組まれた円陣は応援に駆け付けた組合員16人でふくれあがった。
 誰かが言う「ふつう、泣き寝入りかキレて辞めるかで終りのはずなのに、福家さんは立ち上がって解雇を撤回させた。意味のない団交なんてないんだな」。誰かが言う、「福家さんの強さを分けてもらいたい。オレ、いまだにヘタレなもんで」。明るい笑い声が真っ暗な広場に響き渡った。
 そうか。菜津美さんは、会社の命令に黙って従うか、それともクビかという二者選択を迫る大人の世界で、組合に入って会社と話し合うという新しいカードを選んだのだ。単なる「子どものわがまま」とか「茶髪争議」ではないのだと、遅まきながら気づく。
 5月20日、菜津美さんは、青年雇用大集会に集まった3300人の仲間たちに訴えた。
「私と同じ16歳の人たちは自分の権利を知らないから何も言うことができない。でも、労働者の権利は誰もが平等に知らなければならない権利。それなのに、教えない会社、知ることが出来ない労働者がたくさんいます。青年ユニオンの仲間たちと一緒に多くの人に労働者の権利を伝えていきたい」
 

(転載終り)