今も、昔も変わらぬ戦争の悲劇

今も、昔も変わらぬ戦争の悲劇です、目を逸らさずに最後まで読んで下さいね。

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62年前の8月15日、天皇のラジオ放送で日本人の多くは敗戦を知らされた。それは勝者である連合国軍に日本が占領されることを意味した。軍部や報道機関が「鬼畜米英」と敵意をあおり続けたその「鬼」や「畜生」が大挙してやって来る。男は去勢され、女は強姦(ごうかん)されると、全国で避難騒ぎが相次いだ。米軍を苦しめた特攻基地がある知覧の人々の恐怖はことさらで、多くの町民が山に隠れたという。
 その年の12月、知覧に進駐してきたのは、米第8海兵隊第1大隊の兵士たち。上陸戦でわが身を盾に真っ先に敵地に乗り込む海兵隊員は、米軍でも最も気が荒いとされる。しかもサイパンや沖縄で、日本軍との血で血を洗う死闘をくぐり抜けてきた男たちだった。
 日本の警察権がまったく及ばないこの男たちが町で事件を起こさないようにする。そのために警察が白羽の矢を立てたのが、特攻の母、トメさんだった。死を前にして動揺しがちな特攻隊員らの心をつかんだように、米兵たちのすさんだ心を和ませてほしい、と。
 明久さんは言う。
 「米兵の宿舎は道向かいの内村旅館。この食堂も米軍に開放してくれと署長に言われ、トメは最初断ったそうです。でも、酔っぱらうと拳銃をぶっ放すような暴れん坊の米兵も、ポケットにお母さんの写真を忍ばせていた。ああ特攻隊員たちもそうだったと。国は違えど、若者たちに何の変わりもないじゃないかとトメは思ったんですね。彼らを戦地に向かわせた偉い人たちを恨むべきで、若者たちを恨むべきではないと」
 トメさんは食堂を米兵に開放し、歓迎会を開き、生け花を教え、一緒に料理を作った。英語は分からないが言いたいことは分かると、米兵らの話にうなずきながら耳を傾けた。
 「やがて米兵たちはすっかり打ち解け、トメをママ、ママと呼ぶようになったんです。特攻の若者がお母さん、お母さんと慕ったように。2カ月後、基地の接収が終わって知覧を撤収する時、彼らが男泣きしたと、当時15歳だった叔母が日記に書き残していますよ」
 警察の狙いは見事に的中したわけだ。
 実は米兵を和ませるために、もう一つ警察が用意したものがあった。町にあった2軒の遊郭を性的な慰安施設として開放したのだ。そしてそれは知覧に限ったことではなかった。敗戦後に連合国軍が進駐した日本のいたる所で、警察が業者を主導しながら、飲食娯楽施設と性的慰安施設をセットで米軍に提供していったのである。

特攻の母、鳥濱トメさんの孫、明久さん(46)に借りたビデオテープに、気になる部分があった。敗戦後、鹿児島県知覧町進駐軍と折衝した元知覧警察署長(故人)が、こう語っていたのだ。町にあった2軒の遊郭を米兵の遊ぶ場に提供し、一時間いくら、一晩いくらと決めるよう米側から命令された、と。調べると「鹿児島県警察史」も次のように記していた。
 《警察を悩ませたのは、進駐軍側からの慰安婦の要求であった。進駐軍の命令は絶対であり、要求をうけた警察署長や幹部は、管内の貸席業者や接客婦等に説得や勧誘をしなければならなかった》
 これが事実なら、米国には従軍慰安婦問題を非難する資格などないことになる。本当だろうか。
 実は玉音放送3日後の8月18日、警察を束ねる内務省警保局長から、進駐軍用に慰安施設を整備するよう全国に無電が発せられている。9月4日には内務省保安課長も「米兵ノ不法行為対策資料」と題する通達でこう指示していた。
 《進駐決定セル時ハ、附近適当ナル場所ニ慰安所ヲ急設スルコト。慰安所ハ表面連合軍司令部トシテハ公認セザル所ナル如キモ、自衛方法トシテ斯種施設ハ絶対必要ナリ》
 進駐軍は公認していないが、こちらから慰安所を作って提供せよというのだ。これを受けて各警察は慰安所の設置や慰安婦確保に奔走したのである。
 警察がどうかかわったかを詳述しているのが「神奈川県警察史」だ。それによると空襲で焼けた花街に女性は残っておらず、警察が業者に公務乗車証明書を発給し、疎開先を回って勧誘させた。慰安所の布団や衣装、化粧品、消毒薬などの手配や運搬には、直接警察官が携わっている。
 東京では、坂信弥・警視総監の指示で売春業者や飲食店主らが「特殊慰安施設協会」を作って準備に当たった。資金は後に首相となる池田勇人・大蔵省主税局長の指示で日本勧業銀行が用意した。警察と大蔵省がバックの国策事業ゆえ、協会は新聞広告まで出して慰安婦を募っている。
 進駐軍慰安所の発案者とされる坂総監は生前、鹿児島県警察部長だった昭和11年に県内の鹿屋海軍航空隊に自ら作らせた慰安所がその原型だったと語っている。ドウス昌代著「敗者の贈物」によると、女性と問題を起こす飛行兵が多かった鹿屋では、慰安所設置後に成績が向上、真珠湾攻撃の練習地にもなった。それゆえ敗戦直後に近衛文麿・国務相から、国体護持のために婦女子対策をと指示された際、「鹿屋方式でいこう」と即断した。国体=天皇制を守るには、軍人や復員兵による進駐軍への事件が起きて日米間に感情的亀裂が生じてはならない。だから国民の進駐軍への敵愾心(てきがいしん)が高まらぬよう、米兵による性的事件を防ぐ防波堤が要る。そういう論理だったという。
 米軍を迎えた昭和20年末、知覧の遊郭も女性の数が減っていた。そのため警察と町が協力して女性を集めたが、その中には戦争で夫を失った人も含まれていたらしい。
 「ビールが切れたら、米兵に店の外に放り出されたと言っていましたねえ。テーブルを投げつけられたとも。何でも言われるままだったようで……」
 昭和20年代後半から赤線廃止の33年まで、知覧の遊郭の女将(おかみ)だったという女性はそう語る。
 戦中、遊郭には特攻隊員も通ってきた。裸の自分をさらけ出すそこで、彼らは荒れた。部屋の壁には彼らが刻んだ最後の言葉と、本音をたたきつけたかのような刀傷が多数残っていたという。その部屋で女たちは米兵の相手もさせられた。
 敗戦当時その店にいた最後の女性は、3年前に死んでいた。幼くして売られてきて、店で踊りを習い、特攻基地の慰問にも通った。戦後、店から嫁いだが、その後半生が幸せだったか、元女将は語らなかった。
 国を挙げた売春作戦で米国人の日本人に対するイメージは「絶滅させるべき残忍な猿」から「従順な芸者ガール」へと一変した。天皇制は国の象徴として残り、今の日米関係の基礎が築かれていく。

敗戦後、鹿児島県知覧町の女性が米兵に強姦され、混血児を産んだ。同町の「ホタル館富屋食堂」には、10歳くらいのその少年が写った写真がある。金髪を隠すためか、ただ1人丸坊主に刈り上げた頭が悲しい。
 少年の母親(86)は、今も知覧町にいた。59歳の時にくも膜下出血で倒れ、開頭手術の後遺症で視力を失っていた。白内障が進んで同じく失明した79歳の妹と2人で、木造の古い小さな家で暮らしている。
 整理整頓を励行し、使ったものはその都度必ず元の場所に戻す。そうやって頭の中の見取り図通りに家の中を保っているという。
 「目が見えないと暮らしていけないだろうと人は言うけど、できるの。失敗したら同じ失敗をしないように自分で考えるから。やかんの湯気でやけどしたら、何でだろうと考える。ああ、口が手前を向いていたからだ。じゃあ次から必ず向こうに向けよう。そんなふうに一つ一つ考えるんよ。大変よ。でも生きなきゃいかんでしょ。目が見えなくても、何でもできるんよ」
 小柄で細い体。光を失った目に意思の強さが宿る。
 戦争末期、24歳だった彼女は特攻隊の宿舎だった内村旅館で仲居として働き、出撃する隊員を何人も送り出した。その旅館が敗戦後、進駐軍の宿舎に指定され、今度は米兵の世話をすることになった。すきを見ては手を出そうとする米兵をかろうじてかわす日々。だが、用事を頼まれて部屋に行った時、ついに捕まった。
 「助けてと叫んでも、誰も助けてくれんの。みんな怖がって逃げていたんよ。何かあったら全部町が責任を持つと言うてたけど、何がね。終わったら屁(へ)のすっかんだがね。警察署長もまるっきり取りあわない。責任は全部私1人に押しつけられたんよ」
 昭和20年9月13日に内務省警保局長が出した「連合軍将兵不法行為ニ対シ警察官ノ採ルヘキ態度」と題する見解には、こんなくだりがある。
 《拳銃ヲ以テ、威嚇強迫シ万年筆、時計等ノ財物ヲ強取シ、婦女子ニ悪戯ヲナス等ノ事案ヲモ総テ重大ナル不法行為ナリトシテ飽迄之ヲ阻止セントスルハ、却テ事態ヲ拡大紛糾セシムル基トナルヲ以テ、厳ニ慎ムベキ》
 中絶する時期を失し、21年暮れ、福岡市に住む義姉の元で出産した。わが子の金色の髪に絶望し、養子に出そうと義姉の知り合いの家の籍に入れた。が、毎日お乳をふくませているうちに気持ちが変わった。
 「望んでできた子供じゃないけど、この子には何の罪もない。よし、私が育てよう。そう思ったんよ」
 父親を特定するため、子供を連れて福岡の米軍基地に出向いて訴えた。同じように混血の赤ん坊を抱えて途方に暮れている女性が何人も訪ねてきていた。
 翌年、金髪の子と一緒でもいいという福岡の炭鉱員と結婚した。ところがその夫の子を宿したころから夫は働かなくなり、ひどい暴力を振るい始める。結局、結婚生活に見切りをつけ、身重の体で実家に帰った。
 「私は何にも恥ずかしいことはしとらん。そう自分に言い聞かせて知覧に帰ってきたんよ。でも冷やっこいのよ。みんなの目が」
 金髪の子は家の恥と、人が来るたびに長男は押し入れに閉じこめられた。やがて女児が生まれ、3人は実家を追い出される。両親が2人の孫を疎んじたのだ。彼女は生きるために、米兵に乱暴された内村旅館の物置に住みこんで働いた。
 「戦争さえなかったら、こんな目にあわなかった」
 そう思ってはため息をついた。どん底の暮らしに疲れ果て、急流逆巻く川の縁に子供らの手を引いて立ったことがある。
 「母ちゃん、嫌。……母ちゃん、死ぬのは嫌」
 つないだ手を必死に握りしめ、か細い声で長男が言った。ハッと我に返った。
 「その時誓ったのよ。もう絶対に後ろは振り返らん。この子らと前を向いて生きるって」

鹿児島県知覧町で米兵に強姦(ごうかん)されて金髪の男の子を産んだ女性(86)の家を訪ねた時、彼女は「その話はしたくないの」と何度も繰り返した。特攻の母、鳥濱トメさんについての幾冊かの本に、憶測で事実とまったく違うことを書かれ、ぬぐいがたいメディア不信があるようだった。取材はすべて断っているという。
 「だから、あんたにだけ話すわけにはいかんの」
 そう言いながらも、苦しんだ過去の記憶が時折、口から漏れる。胸の中にしまっておくにはつらすぎる思い出がたくさん詰まっているのだろう。私は質問をあきらめ、相づちを打ちながら、ひたすら彼女の話に耳を傾けることにした。すると堰(せき)を切ったように言葉が次々にあふれてくる。
 3時間近い問わず語りが終わるころ、写真を撮らせてもらってもいいかと、恐る恐る切り出した。予想に反して「撮ってもいいよ」という答えが返ってきた。そして「この格好じゃあんまりだから」と、藍(あい)色の半袖の浴衣をはおりながら、こうも言ってくれた。
 「話してもいないことを勝手に作って書かないなら、名前を出してもいいよ。私は何にも後ろめたいことはしてないんだから」
 服を整え終え、座敷の上がり口にちょこんと正座した彼女、中原フヂさんにカメラを向けた。シャッターを押す指が震えた。
 フヂさんの長男利幸さんは昨年12月、大腸がんで亡くなっていた。60歳になる直前だった。ハリウッド俳優のように面長で彫りの深いその遺影が、奥の部屋の仏壇の上で微笑(ほほえ)んでいた。
 「私は子供たちにいつも言ってたの。お前たちは本当に偉かったね。貧乏で貧乏で、周りからはいじめられたのに、愚痴一つこぼさんで、グレもせずによく育ってくれたねえって」
 フヂさんは見えない目を遺影に向けてそう言った。
 利幸さんは小学校に上がるころから、「アメリカ人、アメリカ人」とはやされた。そのたびにフヂさんは「何ね、あんたたちは」と怒って追いかけた。
 「でも利幸は言うんよ。もうええ、放っとき。何も言わんでええよって」
 利幸さんが中学を卒業するころには、フヂさんは内村旅館を出て、トメさんが営む富屋食堂に住み込んで働いていた。高校に通う余裕などないと分かっていた利幸さんは就職を希望した。しかしトップクラスの成績を惜しんだ教師の勧めで奨学金を申請し、それが認められて進学を果たす。2歳年下の妹も後に続き、2人とも奨学金を受けて高校を卒業した。
 フヂさんの家を2度目に訪ねた7月下旬、指宿市に住む利幸さんの妻静子さん(65)が来ていた。
 「私、利幸さんに言ったことがあるの。私の中では、お義母さんとアメリカの兵隊さんが愛し合って生まれたのが利幸さんだって。そしたら怒るの。バカ野郎、どうしてそんなきれいごとで片付けるんだ。俺(おれ)はおふくろが犯されてできた子供だぞって。誰も助けてくれなかったんだぞって……」
 途中から涙声になった静子さんの言葉は、そこで聞き取れなくなった。
 利幸さんのがんが見つかったのは昨年2月。手術したが転移が見つかり、9月には動けなくなった。ある日、枕元にフヂさんを呼び、こう言って笑った。
 「貧乏だったけど、俺はおふくろの子供でよかった。おふくろが言うように、後ろを振り返ったら悲しくなって前に進めなくなる。だから俺も振り向かないと決めた。でも俺が死んだら、ああ、バカ息子がおったなあと、たまには思い出してくれよ」
 フヂさんは振り返る。
 「私は言うた。お前はバカ息子じゃない。お前が死ぬのは嫌ち言うてくれたで、母ちゃんは生きとるんよ。目が見えなくなってからもどんだけお金を送って見てくれたね。お前は決してバカ息子じゃないって」
 日米の戦いの傷跡を全身に負って生きた母と子が、戦後62年目に交わした会話である。

「戦時中、知覧の遊郭には日本の女性だけでなく、朝鮮半島から連れてこられた女性たちもいたんです」

 鹿児島県知覧町で「ホタル館富屋食堂」を開く鳥濱明久さん(46)の言葉に一瞬耳を疑った。知覧に関する本には大抵目を通したが、遊郭のことが記されたものはあっても、朝鮮人慰安婦に触れた本は1冊もなかったからだ。鹿児島県立図書館で調べてもらうと、郷土史誌も含めてそんな記述はどこにもないと言う。

 「特攻隊員もそういう所に行っていたんです。人間ですから。でも、古里に残された恋人が訪ねてくるんですよ、今も。だからどう整理したらいいのか……」

 明久さんはそう言うと、もうそれ以上語ろうとしなかった。事実かどうか確かめるには、当時実際に知覧にいた人に聞くしかなくなった。

 「日本人がいた女郎屋さんとは別に、戦時中は麓川をはさんで対岸に朝鮮人ばかりの女郎屋……慰安所いうんかなあ、あったの。中に入ったことはないけど、少なくとも4、5人はおったよ。あのころはみんな朝鮮人朝鮮人とバカにしよった。哀れだったよねえ」

 敗戦後、米兵に乱暴されて男の子を産んだ中原フヂさん(86)に尋ねると、そんな答えが返ってきた。昨年暮れに亡くなったフヂさんの長男利幸さんの初盆準備のため、嫁ぎ先から里帰りしていた妹の藤本ミフさん(77)が言葉を継いだ。

 「私も記憶がありますよ。朝鮮の女の人たちがいたのはトタン葺(ぶ)きの粗末な家でね。私は子供だったけど、対岸にあった日本の女郎屋さんの子供が同級生だったからよく行っとったんよ。夏には川で水泳(みずおよ)ぎしよったし。朝鮮の女の人たちが見えると石投げたりして虐待しよった。ひどいことしたよねえ」

 私は作家の辺見庸氏が共同通信記者時代に書いた「もの食う人びと」の一場面を思い出していた。自殺未遂を起こした韓国の元従軍慰安婦のおばあさんたちに「もう自殺しないで」と懇願する辺見氏に、台湾の特攻基地にいたという李容洙(イヨンス)さんが打ち明ける。自分を「トシコ」と名付けて優しく接し、「トシちゃんは初恋の人だ」と言って出撃していった特攻隊員のハシカワと、自分は「血を交わした」と。それは暗黒の慰安所生活を照らした、ただ一筋の光。知覧にいた半島の女性たちにも、そんな光は差したろうか、と。

 フヂさんとミフさんは口々に言う。

 「慰安婦にされた朝鮮の人たちがやかましく言うのは当たり前。同じ人間だから悔しさも同じだろうって」

 「自分らもいじめよったから、あの人たちが言うのは本当よねえと思うんよ」

 私はふと思いついて、フヂさんに尋ねてみた。

 「フヂさんを犯した米兵、今でも憎いですか」

 フヂさんは答えた。

 「憎かったよねえ。親子で死のうとか、いろいろ考えた。でも今は憎いも何もない。アメリカだけかと思ってたら、日本の兵隊も中国や朝鮮で同じことしたってね。行った人から直接聞いたよ。どこの国の男も戦争に行けばそうなると思うんよ。だから戦争を憎むんよ。命令だからって人のために死んだり、殺したり。何の得になるの。家族に何が残るの。何もないよ。どうしてそれが分からんの。1人で平和を叫んだって何にもならんと言うけど、叫びたいもの。どんだけの女が苦しんだ? みんな泣き寝入りしてるんよ。私だけじゃないの。死のうと思うよねえ、でも子供に罪はないしねえって。それでも人は外人の子と言う。どんだけみんな悩んだね。その苦しみは忘れん。もう世界中の戦争をやめてほしい。そして自然に生きるの、春夏秋冬を味わって。みんな人生を全うして死にたいじゃない。国のためとか何のためとか、そんなんじゃなくて。そう思わない?」

 犯されて宿した命を産み、育て、失明して27年間光のない世界を生き抜いて、当の命を看取(みと)った1人の母。その万感込めた言葉に、私はただただうなずいていた。


今、戦争を忘れて、右傾化に進む世の中、文科省による、歴史の改変及国歌・国旗の強制、明らかに戦前・戦後の歴史を、捏造しかねません。
死神の安部晋三の踏襲による強行採決教育基本法改悪三法がいよいよ、浮上して教育混乱・破壊しています。
おまけ、安部の政権構想を表示してみます。
子供たちの世代が自信と誇りを持てる「美しい国、日本」を国民と一緒に創りあげていく「決意」を披露。目指すべき国のあり方として、(1)文化、伝統、自然、歴史を大切にする国 (2)「自由」と「規律」を知る、凛(りん)とした国 (3)未来に向かって成長するエネルギーを持ち続ける国 (4)世界に信頼され、尊敬され、愛される、リーダーシップのある国、
戦後レジームからの新たな船出
自民党公明党の圧倒的多数で、これを文科省は真に受けて「法制化」したのです。
60%の国民が小泉→安部→福田政権に付託したんです。
良くも悪くも国民の支持ですから、その結果が現政権を支えているんですよ。